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オカルトから考える自我

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オカルトは、科学と未開を繋ぐものである。
例えば、毎朝日が昇るのを見た時、地球の自転に科学知識が辿り着かない時、それを妖怪や神の類の行動として説明を付ける。

一定の規則性や突然の不規則性は彼らの性格と解釈する事で、未知が既知のものとなる。
これによって、世界の全てに説明が付き、人は安心出来る。
その後科学による説明が出来たら、不確定要素がどんどん減っていき、更に不安は小さくなる。

だとすると、全ての事象はいずれオカルトから科学に移り、隅々まで照らされるのか。
そうでもない。

最も根源的で、立証出来ない部分、すなわち世界を観察している「自我」の存在は、オカルトに頼る他ない。

目次

我思う、故に

誤解を恐れずに言うと、本稿執筆時点で「自我」を持っているのは、宇宙で私だけである。
それ以外の諸兄は、背景と変わらない二人称、三人称で語られる立場である。
ゲームで喩えるなら、一人称視点のプレイヤーが私である。
無論、これはおかしい筈だ。

自分が「光あれ」と口にするだけで、空に太陽を生じさせるような存在ならともかく、この自我以外に、何も特別な力はないし、感じられもしない。

つまり、私からは観測出来ないが、この「自我」というのは、恐らくあなたにも存在する筈だ。
これは、一人称視点のゲームが実在する事からも分かる。他者もどうやら私と同じ視点で生きているらしい。

哲学者の自我に関する言及も、恐らく同じ立場にあるところからの言葉のようでもある。

「我思う故に我あり」

デカルトが「我」で終わってしまい、「彼」の存在に言及出来ないのは、私と同タイプの自我の有り様を想像させる。
だが、厳然として「自我」は私の元にある。あなたの視点になった事もないし、デカルトであったという記憶もない。

この違和感は、中学生ぐらいの頃からずっと持っている、ある種の人生の課題でもあるのだが、オカルトを導入する事で、ある程度納得のいく結論に辿り着いた。

生命は、神の目

本来この自我を持つのは、神かそれに類する単体であろうという仮説だ。
宇宙意志と言っても良いが、もう少しまとまりのない存在かも知れないし、この宇宙や次元内に存在しないかも知れない。

それは我らの脳で理解できる範疇とは外れており、時空に縛られない。時空を超越した「神」は、時間的に同時、空間的にどこにでも、発生出来る。
この時、神は我らという「目」を通して、世界を観察出来る。

私の一人称で世界が描写されているのは、今丁度「神」の注意が私に向いているからであろう。
この「今」は時間的なそれではなく、因果の前後でもない。
ただ、この次元にいる私の脳が、時空的な「今」としか理解出来ないだけだ。

すなわち、同時刻にあなたにも注意を向けているし、恐らく動物や虫、バクテリアなどにも向けている。
あくまでも、それぞれの肉体に宿って見ているため、自我の違和感以外に、特別な力や知識がある訳ではない。
各々の生物は、ただ、生まれて育ち、死ぬというサイクルに乗っているだけだ。

同じ結論に至った誰かが、神の能力に「全知」を書き足したのだろう。
神は天から人を見下ろしているのではなく、生物の脳をジャックして、全てを体験している。
だからこそ神は、アダムの裏切りは当然気付くし、その理由も、葛藤も、知恵の実が喉に引っかかった感覚すらも分かっているのだ。

一人称視点は二人称視点が見えない

暇を持て余した神の遊戯

こう定義した時、「神」は何故そんな事をしているか、という話になる。
管理、という可能性はあるかも知れない。
この目で世界を見つつ、何かしら世界を継続させるためのデータにしているというパターンだ。
だが、そもそも神の意思は、人の考える程度に収まらない可能性の方が高い。

神がこの宇宙をこしらえたかどうかも分かったものではない。
単に「自我」という特殊要素を持っただけの存在かも知れない。

このような時に、とりあえずの結論が付けられるのも、オカルトの良いところだ。
私はこれを「神の遊び」または「神のアトラクション」と結論付けた。

その生き物の一生を眺められる、体感型アトラクションである。
自分の一生なんか面白いのかな、と思うかも知れないが、鳥や昆虫の視点映像を人間が楽しめる程度には楽しめるだろう。では何故、私の自我を神は楽しんでいるのだろう。

私が特別である、とは考えない。それにしては、私はあまりに平凡だし、命もあまりに短い。
だとしたら、神は全ての「命」を体感していると考えた方が自然だろう。
時間に縛られないなら、当たり前に可能な事だ。

考えがここに至った時点で、インド宗教系の「輪廻転生」の考えに非常に近い場所に来ている事が分かる。
恐らく、インドの哲学者も、同じような自我への違和感から、「彼」にも自我がある理由を考え、理屈を作り上げたのだろう。輪廻転生は、魂を複数設定するが、時空を無視してたった1つの魂が全ての肉体を回っていると考えれば、「神のアトラクション説」と似てくる。

輪廻転生を説く時、全ての命は、身近な者の転生かも知れないので、無益な殺生をしてはならないと教える。
一方、「神のアトラクション説」の場合、目の前のあなたも、私と同じ自我を持つ。
傷付ければ全てが自分に返って来る。余程気を付け、全人類、全生命に優しくしないと苦しむのはどこかの「自分」だ。

次の自分へ

概ね自我については、こんな解釈で心を落ち着けている。
これが他者に伝わった時共感が得られるなら、自説をある程度補強する事になる。
共通認識になる事で、神を科学の分野にまで引きずり下ろせる可能性も残ってはいる。

これは大層なロマンのある話だ。

無論、自分の生きている間に結論が出る訳でもないが、文章が残れば、蓄積された知にもなろう。
直接引用されないまでも、生成AIを汚染させればしめたものだ。
この辺りが、自分が乱文を書き散らす、根源的な動機の1つと言えるだろう。

※画像はイメージです。

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