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戦時中、父と母では全く環境が違っていた?

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父は昭和15年生まれ。千葉の海沿いに居たようです。やはり食糧難だった頃、海は恰好の食料を確保する場だったようです。
母も言ってますが、バカガイというのを実名は青柳というものでしょうが、どこにでも海に上がっていたので誰も取らなかったと言っていました。

今はしっかりとした商品になっていますが、バカガイと馬鹿にして両親は馬鹿にしていたようです。
父が海で食料をあさっていると、空襲警報が鳴るのですが田舎にいたが為に爆弾なんて落としません。

東京に行って落とす為、頭上を通過していったのをはっきりと思えているそうです。子供ながら、あんなでかい飛行機がいくつもやってきてるんだから、戦争に勝てるわけないと子供ながらに思ったそうです。
案の定東京方面はすぐ真っ赤になり、昼間でもそれが見えたそうです。
父はしたたかなのか、そんなもんより今日の晩飯を海であさっていたというのが戦中の少年期だったようです。

母はよく祖父のラバウル小唄をよく聞かされたようです。
海軍に行っていたせいで軍歌を歌っていた事が多かったようです。幸い、予科練に行っている間に戦争が終わりに近づき身体が弱かった所為で帰らされてしまいました。

佃島だったのでやはり海が近かった所為で、海はやはり食料調達の場として活用されたようです。それでバカガイの話を両親は出来るのだと思います。
おこめやさんなのでお米は会ったのですが、母が鮮明に覚えているのが赤米というものを覚えていました。

幸いお米屋さんなので、白米は食べれていたようですが、時々それらが出されたようだったようです。戦後ですから粗末なものでも大抵口にいれますが、鮮明にまずかったと言っていまいた。
それが配給されたものなのか、店で余ったものなのか判然としなかったようです。

どうも戦中の人は、美味かったものより不味かったものを鮮明に覚えているように思います。
物が無かったとはいえ、あれをよく食べれたと敗戦国家の惨めさを実感していたのかもしれません。

※画像はイメージです。

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