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墓参りに独りでは行ってはいけない説、オカルト観点から考える

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SNSで、「お盆の墓参りには独りで行かない方が良い」という発言が出て、注目が集まっていた。
「すわ、根拠乏しい謎マナーか」と、ざわつきそうな内容だが、種を明かせば、熱中症のリスクを啓蒙する、現実的な内容だった。確かに、灼熱のお盆時期、遮るもののない墓地で倒れれば、自力救済は困難だろう。
墓石が冷たいといっても、それは夜中の話だ。

さて、冒頭から斬って捨てられたオカルト要素だが、お盆のお墓参りがオカルト的要素を持つ行事である事は間違いない。
オカルト観点から、お盆のお墓参りについて考えてみよう。

目次

ふわふわお盆

結論から言うと、お盆にワンオペで墓参りというのは、オカルト的意味からも、あまり良い事はない。
まず、お盆とは何であるか、改めて触れておこう。

「お盆」は、通常はカレンダーに載っていない。
昔からそうだった訳ではない。
「明治3年1月27日 第57号布告 商船規則の別紙」内で、旧暦7月15日が休日とされている。これが「法的に存在したお盆休み」に当たる。

その後、「明治5年太政官布告第337号(改暦ノ布告)」で、従来の太陰暦から、太陽暦のグレゴリオ暦(西暦)に切り替わった。
ここで、祝祭日に関しては「諸祭典等旧暦月日ヲ新暦月日ニ相当シ施行可致事」とされた。
つまり、旧暦の日付を、そのまま新暦(西暦)の日付に読み替えろ、という乱暴なやり方である。

これにより、旧暦7月15日をそのまま西暦7月15日にずらし、お盆休日になった。だが、これは慣習的な日取りとあまりにズレるため、人々は西暦8月15日を目安に、休日でもないのに儀式を続けた。

戦後になって、「祝日法」が成立するが、国家神道の匂いが残る祭日は丸ごと改廃された。
その流れの中で、有名無実化していた休日としてのお盆は消滅し、慣習だけが残った。
故にお盆は現在のカレンダーに載らず、地域によって微妙に異なる上、毎年何となくふわふわしているのである。

仏教とお盆

日付がふわふわしている事が分かったところで、内容に入ろう。

お盆は、土着的な祖霊信仰と仏教が融合された、ハイブリッド慣習である。
仏教の比率は高いが、「仏教行事」と思っていると矛盾点に躓く事になる。
何しろ、仏教の多くは、「死後の人間は転生する」と考える。
転生した霊がお盆に「帰る」なら、我々も「帰る」必要が出る訳で、「迎える」者が不在になってしまう。

お盆に関する仏教の考え方は、「施餓鬼」と「盂蘭盆会」が代表的だ。

施餓鬼は『救抜焔口陀羅尼経』に伝えられる仏教儀式だ。
昔、釈迦の弟子、阿難が餓鬼に出会い、呪いとも予言とも付かぬ言葉を受けた。
阿難は釈迦の教えに従い、餓鬼へ食物を供える事で、難を逃れたという。
これを真似た「施餓鬼法」は、夜に静かに行われる密教の儀式である。

一方、盂蘭盆会は『盂蘭盆経』が伝えるものだ。
釈迦の弟子、目連は、修行で身に付いた神通力で亡母を探した。
見つかりはしたが、生前に欲深かった母は、餓鬼道に堕ちていた。
憐れに思った目連が、飢え苦しむ母に飲食物を与えようとするが、目の前で炎になって口に入らない(これは無財餓鬼の基本ルールである)。

目連が釈迦に助言を乞うたところ、「安居の最終日(旧暦7月15日頃)に比丘(僧侶)に食べ物を施せ」と言われ、従ったところ、布施の一部が母に渡り、餓鬼の境地を脱したという。

餓鬼となった縁者に、もっとカジュアルにお供え出来る方法としては、地蔵に託す、というものがある。
地蔵に供えた水は、24時間年中無休で餓鬼に届けられるという。水という記述が多いが、どうしてもというなら、食べ物を供えても良い。
苦しみのデッドエンド、驚異のワンオペ救済、ワンストップ地蔵菩薩、印度生まれの王族育ち苦しむ衆生大体救済。
安定の地蔵である。

祖霊信仰とお盆

祖霊信仰の方は、「ご先祖様が見ていてくれる」という考え方で、縁のある死者が、ある種のカミとして子孫を守る。

祖霊信仰は神道的だが、そのまま神道ではない。
神道、すなわち日本神話の場合、伊弉諾が現世と黄泉を区切ってしまったので、カミになっていればともかく、ただ死んだだけの先祖は何もしてくれない。

祖霊信仰は、人類学的観点から考えると、「先祖代々」「子孫のため」という考え方の源流である。
この考えは、自分の寿命内で終わらないような長期事業を可能とする。
先祖側は「始める」モチベーションが湧き、子孫側は「引き継ぐ」義務感がもたらされる。
これによって、治水や開墾、品種改良など、すぐ成果が現れず、長期的に多くの労力を必要とする事業が続けられ、集落のシステム的資産が蓄積されていく。
先祖の偉業を語り継ぐ事で、知識も蓄積され、ソフトウェア面、すなわち文化文明も拡大していく。

先祖の代に着工された土手が洪水を防いだり、救荒作物の言い伝えで飢饉を乗り切ったり出来れば、「ご先祖様が守ってくれた」という信仰が、肉感に近い説得力を持って成立する。

「ワンオペ」×「お盆」の危険なマリアージュ

これらをまとめると、

  1. オカルト的側面からは、ワンオペ墓参を禁じる要素はない
    盂蘭盆会方式なら目連にしてからが、ワンオペで餓鬼となった母に会っている。
    祖霊方式なら、子孫の顔を見せるという意味で、家族で仲睦まじく墓参した方が良さそうだが、祖霊は既に「成した」存在なので、タブーがある訳ではない。
  2. ただし8月15日頃に墓参する根拠が薄弱
    日付の根拠になっているのは盂蘭盆会ただ1つであるが、
    ・釈迦の指示、旧暦「7月15日」頃(仏教の行事由来)
    ・そのまま読み替えて西暦「7月15日」(本来の時期と違う)
    ・時期があまりズレ過ぎたので「8月15日」(31日に伝統的な根拠はない)
    と、原型はほとんど意味を留めていない。長く見積もっても、明治6年以降の風習に過ぎない。

150年という歴史は、そこらの銀行でも当てはまる。よその新興国ならともかく、日本で伝統を語るには、あまりに短い。
結論としては、先祖にワンオペでお参りするのは良いが、お盆にする必要はない、となる。

1年の中には、彼岸、正月、命日と、手頃な日はまだまだある。敢えて苛酷なお盆を選ぶ必要はない。
餓鬼道に堕ちていそう縁者なら、盂蘭盆会1回ではなく、地蔵へのお供えを日々こまめにした方が良い。
夏に伸びる雑草が気になるなら、外注しても良い。

避けるべきは、「絶対にお盆に墓参しなければ」と、気に病んでしまう事である。
何の為にそれをするのか、時に原点に立ち返るべきだろう。

参考:
「明治3年1月27日 第57号布告 商船規則の別紙」
「明治5年太政官布告第337号(改暦ノ布告)」

※画像はイメージです。

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