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豊臣秀吉を支えた最高のNo.2! 豊臣秀長

秀長が生きていれば豊臣政権は長続きしていた?

目次

秀長の生い立ち

豊臣といったら秀吉というように多くの方は豊臣秀吉と答えるでしょう。実際天下統一を成し遂げたのは秀吉なのでそれも仕方ありません。しかし、その裏には数多くの優秀な配下がいたことを忘れてはなりません。その中でも特に功績を残したのが秀吉の異父兄(同父弟説もあり)でもある豊臣秀長です。

豊臣家は百姓の出世ということもあり、秀長自身も百姓としての日々を暮らしておりました。そんな秀長に転機が訪れたのは20代の頃です。若くして家を離れていた秀吉が自宅に帰参しました。当時秀吉はすでに仕官しており、織田信長の配下となっておりました。百姓出身で信頼できる配下がいなかった秀吉にとって、兄弟が配下になってくれることはこの上ないものでした。

百姓から武士へ、秀長は人生の転換期を迎えることになりました。

秀長の功績

Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

武士となった秀長の功績は大きく2つあります。1つ目は人たらしと思うほどの人格者であった点です。

性格は温厚であったらしく、当主であり動き回っている秀吉に変わって部下のいざこざや、不満など細かいところのサポートをしてくれる貴重な存在でした。社会においても社長がいて副社長がいます。その2人のバランスが良いと雰囲気が良く風当たりの良い会社になります。まさに秀長は上司(秀吉)と部下(配下)の間を取り持つ理想的な人材であったわけです。当時当主を変え続けていた藤堂高虎でさえ秀長に仕えてからは秀長が死ぬまで仕え続けていました。
2つ目は内政、戦闘ともに優秀であった点です。

武将の多くは内政は苦手だけど戦闘は得意などどちらかに偏るものです。そんな中秀長は両方とも優秀なハイスペックぶりを発揮します。内政においては、光秀を討伐し得た領地である紀伊の統治を完璧にこなし、築城の際に駆り出される農民達には築城に参加したものの税や年貢の徴収を免除するなど民衆の心を掴む上手さもありました。

戦闘においては、浅井討伐、四国征伐、九州征伐など数多くの戦に参加しどれも戦果をあげてきております。
内務も外務も完璧にこなし、おまけに人には好かれていると、まさにハイスペックな人材でした。

秀長の最期と歴史のタブーIFの話

秀長の活躍もあり、天下統一も関東、東北を残すのみとなっておりました。しかし九州征伐後、秀長は体調を崩すようになります。その為、関東、東北征伐には参加できず、統一と同時に秀長は52歳でこの世を去ります。
その後はご周知の通り豊臣政権はわずが10数年で崩壊し、徳川家が天下統一して、江戸幕府が開かれることになります。

歴史にIFは禁句ですが、秀吉は天下統一後朝鮮出兵、秀次切腹事件等、奇行に走るケースが増えました。もし秀長が生きていればそんな秀吉の暴走も止められたのではと思います。また、関ヶ原の合戦も起きず徳川家康が天下を取ることもなかったのではと考えさせられます。

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