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北条氏康はドラマや映画の主役にならない?

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北条氏康は同時期に活躍した武田信玄や上杉謙信と異なり、ドラマや映画の主役になっていません。
そのことについて考えてみたいと思います。

目次

北条氏康とは?

北条氏康は、1515年に誕生しました。祖父は伊勢宗瑞(北条早雲として知られています)、父は北条氏綱、氏康は、後北条氏3代目です。
家督を相続すると大規模な検地を行い、領国支配を強化しました。1546年に川越合戦で扇ケ谷、山内両上杉氏を破り、伊豆、相模、武蔵に加えて上野、下野、下総の一部も支配し、後北条氏の黄金期を築きました。本拠地である小田原城の修築に努め、上杉謙信や武田信玄の軍勢を撃退しましたが、1571年に逝去しました。

主役にならない北条氏康

武田信玄は、中井貴一さんが演じた大河ドラマ「武田信玄」で主役となり、信玄のライバルてある上杉謙信もまた榎木孝明さんが演じた映画 「天と地と」で主役となりました。それにひきかえ北条氏康を主役としたドラマや映画は作られていません。武田信玄や上杉謙信とは大きな差がつけられています。

ここからは、自分なりの考察を書いていきます。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と直接対峙しなかった

北条氏康は、信長、秀吉、家康と直接対峙していません。武田信玄は、三方ヶ原の戦いで織田徳川連合軍を破りました。上杉謙信は手取川の戦いで織田軍を破りました。氏康は信長、秀吉、家康とは直接戦っていませんので、その分だけ全国的な知名度が低く、主役にしづらい可能性があります。

徳川家によって意図的に後北条氏の評価を下げられた

徳川家康は小田原の陣の後、関東に移封されて江戸城を本拠地としました。
家康が入った頃の江戸は人がほとんど住んでいない寒村で、城も朽ちかけていたとされていましたが、近年の調査では江戸は後北条氏の重要な拠点の一つで、城の周囲にはある程度の人が住んでいたという説が有力になっています。つまり、家康はゼロから江戸の町を築いたのではなく、中小規模の地方都市を日本の首都にしたわけです。

それはそれで凄いことですが・・・では、江戸が寒村だったという話がどうしてまことしやかに傳えられたかというと、徳川家康の業績をたたえるために、後北条氏の評価が意図的に下げられたのではないでしょうか。「神君家康公は寒村に立派なお城を築き、江戸の町を作った。
家康公は素晴らしいお方だ」「江戸を寒村のまま放置した北条氏政は愚かだ、だから氏政の父の氏康も凡将だ!」幕府の御用学者によって歴史が作り変えられたのではないでしょうか。その結果、北条氏康の評価、知名度が下げられたと思われます。

家庭内が円満でドラマ的要素に乏しい

父を追放し、長男を廃嫡した武田信玄や兄と戦って家督を継いだ上杉謙信と比べると、氏康の家庭は円満です。また、後北条氏では一族内の争いが起きていません。外敵との厳しい戦いはありますが、氏康の家庭は本当に平和です。
氏康は自分の親や子供のことについて葛藤したことはなさそうです。そのために、ドラマ性が乏しいのでしょうか、北条氏康を主人公にした小説もあまり見かけません。

ながながと考察を書いてきましたが、小田原市では「北条五代」をテーマにした大河ドラマを誘致する運動が起こっているとか?
私もドラマ化を期待しています

※画像はイメージです。

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