日露戦争陸軍最後の決戦~奉天会戦~

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120年前の1905年(明治38年)に繰り広げられた日露戦争において陸の戦いの最終戦と言えるのが奉天会戦です。
日露戦争での陸軍の最終決戦となった奉天会戦とはどのような戦いだったのか?

目次

苦難の戦いを続ける日本陸軍

1904年(明治37年)2月に開戦した日露戦争は日本陸軍にとっては苦しい戦いが続きました。朝鮮半島から上陸した日本軍は現在の中朝国境地帯にある鴨緑江を渡り満州に進軍できましたが、遼東半島から上陸した第2軍は南山の戦いに勝利をするものの4000人の死傷者が出て機関銃と砲撃の厳しい近代戦の洗礼を浴びる事となった。

続く旅順攻防戦では要塞で迎え撃つロシア軍に日本軍は1万5000人以上の戦死者を出す犠牲が出て3度目の総攻撃で要塞を制圧した。その間に満州を北上する日本軍主力である満州軍は遼陽と沙河でロシア軍との会戦で勝つものの戦争の勝敗を決める決戦とはならなかった。

1905年(明治38年)2月、日露戦争の前線は満州の奉天にあった。日本軍は大山巌元帥率いる24万人、ロシア軍はアレクセイ・クロパトキン大将率いる36万人が奉天に結集した。大山はこれから起きる会戦を「日露戦争の関ケ原である」と将兵に訓示する程に日本軍は奉天の会戦を決戦であると意気込んでいた。それは日本軍は持てる戦力のほとんどを奉天に集めていたからだ。

決戦!奉天会戦

2月21日から日本軍は最右翼の鴨緑江軍が前進を始め3月1日には最右翼にある乃木希典大将の第3軍が動き出した。乃木は第3軍を進軍させ続けロシア軍を引き付ける。
鴨緑江軍と第3軍が左右でロシア軍の戦力を引っ張り出し、手薄になる前線中央から突破する作戦であったが前線中央のロシア軍は日本軍を防いでいた。

乃木の第3軍も戦力を強化したロシア軍によって前進を阻まれ日本軍は行き詰る。
ところがロシア軍は退却を始め奉天からも去って行った。これはクロパトキンが乃木の第3軍が奉天の北へ回り込むロシア軍の背後を遮断される恐れ、または騎兵部隊である秋山支隊から送り出した永沼挺身隊がロシア軍の補給線である東清鉄道が通る鉄橋を爆破した(破壊できす)事で補給線を脅かされると感じた為とも言われている。
クロパトキンはあくまで一時的な撤退で再度戦うつもりであったが、これまで何度も退却を続ける「退却将軍」と批判されたクロパトキンは司令官を更迭されてしまう。

一方の日本軍も弾薬が尽き、何よりも指揮官が多く死傷し軍隊の組織として危うい状況になり奉天より北へ更に進む事は出来なかった。
3月10日にロシア軍が去った奉天を日本軍が占領し、この日を記念して日本では陸軍記念日が制定されるほどの勝利と称えられました。奉天会戦は苦戦の先に起きた奇跡で得た勝利と言えるでしょう。

featured image:不明Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

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