伊賀・甲賀~忍者とは?

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一般の日本人の中でも、忍者と言えば敵対する勢力への諜報活動、破壊工作、要人暗殺の実施など、今で言えば軍隊や警察などの特殊部隊が行うような活動を請け負っていた集団とのイメージが強いように思う。

知名度の高い忍者を挙げるとするならば、伊賀の服部半蔵、甲賀の猿飛佐助、風魔の小太郎等の名が頭に浮かぶが、何れも戦国時代を舞台に特定の主君に仕え、前述した任務を遂行した印象が大きい。
しかしこれらの代表的な忍者のイメージは、いずれも何らかの創作物から作り出されたもので、かろうじて服部半蔵は実在の人物ではあるものの、猿飛佐助や風魔の小次郎の存在はフィクションである。

アメリカにおいても当の日本以上に忍者はオリエンタルで神秘的な存在として認識されている事もあり、カワサキ製のオートバイにはその名を冠したNinjaというシリーズも展開されている。
今回はそんな日本が誇るヒーロー・忍者について、出来るだけその実体やあり方、実際にはどのような存在であったのかを及ばずながら解説してみたいと思う。

目次

日本の歴史における実際の忍者とは

日本の戦国時代における忍者集団としては、徳川家の伊賀忍者、豊臣家の甲賀忍者、後北条家の風魔忍者、伊達家の黒脛巾組などがつとに高名であるが、全国的には80余の流派が存在していたとも言われている。
忍者と言う呼称自体も実は昭和の時代に各種の創作物を介して巷間に流布されたもので、戦国時代には主として「忍(しの)び」、「乱破(らっぱ)」、「素破(すっぱ)」等と呼ばれていたとされる。

日本における忍者の起源については、聖徳太子が飛鳥時代(592年~710年)に大伴細人(おおとものほそひと)を「志能備(しのび)」と称して使役したとする説もあるようだが、文献上の記録は発見されていない。
この「志能備(しのび)」が転じて「忍(しの)び」となったと見る向きも多いようだが、そう言えば週刊ヤングマガジンに連載され2022年秋にアニメ化もされた人気コミック「アンダーニンジャ」でもこの言葉はもじられていた。
そこでは主人公である現代日本に生きる忍者に指示を与える上役が、普段は「志能便」と言う宅配業者の配達員を装いながら活動している様が描かれ、「志能備(しのび)」を連想させるものとなっていた。

実際に忍者の存在が確認されている文献としては、鎌倉時代と室町時代の間の南北朝時代の騒乱を書き記した「太平記」が最古とされ、足利尊氏配下の武将・高師直が「忍び」を用いて石清水八幡宮を焼き討ちさせたとの記述がある。
ここからも忍者は冒頭に挙げたような破壊工作を行う任務に従事した事が見て取れるが、その後、各種の創作物によってとりわけ名が知られるようになったのが伊賀と甲賀で、日本の忍者集団の双璧を成す存在だと言えよう。
尚現代では女性の忍者を指す言葉として「くノ一」が浸透しているが、元は単に女性を指し示す隠語であったとも言われ、これが女性忍者を指す言葉として認知されたのは山田風太郎の著作の影響が大きいと考えられている。

日本の忍者の代表 伊賀忍者

日本の忍者の中でもとりわけ高名な伊賀忍者は、現在の三重県の北西部の伊賀市及び西部の名張市の伊賀地方を発祥の地としていた集団で、鎌倉時代から室町時代にかけて同地は伊賀国と呼ばれる地だった。
日本で武家政権の時代となっていったこの当時の伊賀国には、全体を統括する領主はおらず、小豪族が割拠する山間の僻地で水不足に見舞われる事も多く、耕作が困難な事と自衛を兼ねて忍者集団が生起したと言われてる。

こうして自らの生き残りをかけて諜報活動や破壊工作等の技量を会得した伊賀忍者は、その特殊技能を金銭を得るための契約として用い、雇い主の指示によって派遣される傭兵的な集団となっていった。
このあたりの伊賀忍者の在り方は、雑賀の鉄砲衆とも似た特殊技能を会得した集団であったとも言えそうで、金銭的な報酬を得られるならば敵対する雇い主の元にも人員を派遣する事もままあったとされている。
但しこうした伊賀忍者の特定の主君を抱かない独立したあり方は、織田家が戦国の覇者として台頭するに連れて討伐の対象ともなり、天正伊賀の乱と呼ばれる複数回の弾圧・侵攻を被る事にも繋がった。

天正伊賀の乱の結果として伊賀忍者達は織田家に服従を強いられる事となったが、本能寺の変で織田信長が死去した際には、その同盟者で大阪の堺にあった徳川家康を守る側に就き、領国の三河に逃す手助けを行ったとされる。
伊賀は独自の自治を貫く気風が強かったとされるが、服部氏・百地氏・藤林氏の最上位に位置する氏族が頂点に立ち、これら一族の意見に重きが置かれたとも言われ、その意味では上意下達の社会だったとも解釈される。

伊賀忍者は幼少時より鍛錬を積み、基礎的な体術に秀でた者が多かったとされるが、前述の天正伊賀の乱では城戸弥左衛門が失敗に終わるも2度に渡って織田信長を銃撃したと伝えられており、鉄砲の名手も多かったと思われる。

日本の忍者の代表 甲賀忍者

伊賀忍者とその知名度において双璧を成す甲賀忍者は、現在の滋賀県の南東部の甲賀地方を発祥の地としていた集団で、三重県の伊賀地方からは山間部を隔てて北東方向に位置するが、非常に近い距離にある。
前述した聖徳太子が使役したとも伝えられている大伴細人(おおとものほそひと)、その子孫が甲賀地方に根付いて武士化したものが甲賀武士とも言われ、これが戦国期の甲賀忍者の源流となったと考えられる。

室町時代の末期に近江の六角氏が戦国大名化すると、甲賀武士らはその配下に組み込まれ、攻め込んできた室町幕府軍と戦い、山中に潜んで地の利を活かした戦術を駆使して善戦、六角氏の存続を支えた。
しかしその後に六角氏も織田信長の台頭の前に敗れた為、甲賀地方は織田家の支配下に置かれ、一説には織田家の重臣となった滝川一益は甲賀の出自とも言われており、人気コミック「花の慶次」でも慶次の台詞にもその内容が見られた。

織田信長の没後に天下を統一した豊臣秀吉の治世時に甲賀地方は、その配下の中村一氏の領地となり、甲賀武士は一部を除き士分から外れたが、そこから豊臣家お抱えの甲賀忍者と言う構図が生まれたと目される。
その豊臣家の天下も徳川家康に簒奪される事になるが、甲賀忍者は全てが徳川家に弾圧されたと言う訳でもなく、前述した徳川家康を大阪から領国の三河に逃す手助けをした中に甲賀武士も含まれていた為、一部は仕官が許された。

但し豊臣政権下で士分を外されてしまった甲賀武士の一派は、江戸幕府に対して自身らの貢献を訴え、士分への回帰を唱えた為、この動きが今日の甲賀忍者のイメージの一端を作ったと考えられている。
結局、この訴えが江戸幕府に認められる事はなかったが、伊賀忍者と並ぶ甲賀忍者と言う図式が後世の創作等に大きな影響を与え、架空の人物だが甲賀の猿飛佐助、伊賀の服部半蔵の名が広まる契機となった。

甲賀忍者も伊賀忍者と同様に鉄砲の遣い手としても名高いが、甲賀地方は今も製薬企業が多い事でも知られ、戦国時代の当時も薬の知識に長じていたと言われ、またくノ一は存在しなったとも伝えられている。

高名な忍者の比較

伊賀忍者として先ず最も有名であろうと思われるのは服部半蔵だが、半蔵門にも名を遺す彼は2代目で正式名は服部半蔵正成であり、実は槍を得意とする武士であり、自身は忍者では無かったと言う事もよく知られている。
その為実際に伊賀忍者の頭領だったと伝えられているのは百地丹波であり、天正伊賀の乱の際に織田勢と戦い敗れるも生き延びて1640年に天寿を全うしたとされ、ゲームの「信長の野望」にも武将として登場する。
甲賀忍者として最も有名であろうと思われるのは、猿飛佐助だが言うまでも無く架空の創作上の人物で、実在の人物ならば多羅尾光俊が最も大物ではないかと個人的には感じる。

多羅尾光俊は甲賀武士として六角氏次いで織田氏に仕えたが、徳川家康を大阪から領国の三河に逃す手助けをした事で山城並びに近江に所領を得て、豊臣政権時には最大で8万石の所領を与えられた大名となっている。
しかし豊臣秀次に側室を世話していた事から、その失脚に伴い改易となり以後は蟄居するも何と95歳・1609年まで生きて世を去った。
伊賀忍者と甲賀忍者、どちらが史実の上で大きな働きをしたのかと問われれば、何れも決め手となる事績が見当たらず、正直なところ明言する事は困難だと言う他ないだろう。

失われつつある実写の忍者物作品

個人的には忍者と言えば、探偵、そしてスパイと並び、実際の人物の存在・活動内容とフィクションでのそれとが大きく乖離している代表例だと感じており、あくまで後者の活躍を愉しむべきものだと感じる。

その上では最終的に天下を治めた徳川家康のお抱えとなり、日本を代表する忍者と見做されている服部半蔵の存在がやはり群を抜いているように思え、伊賀忍者の方がメジャーであると感じる。
その理由の一つには故・千葉真一氏が主演を務め忍者としての服部半蔵を描いた人気TVドラマ「影の軍団」の影響が頭を過るが、今や実写の時代劇を制作する予算も場所も失われつつある事は残念である。

※画像はイメージです。

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