一大ムーブメントを巻き起こした「ゆるキャラ」、一時期のその盛り上がりは尋常ではなく、多くの人気「ゆるきゃら」が様々な媒体を賑わした。
「ゆるキャラ」と言う存在をアピールし全国区の催しにまで押し上げたのは、初代のひこにゃんの功績が大きく、彦根市の町おこしと認知度向上に今も貢献している。
この彦根市の「ゆるきゃら ひこにゃん」こそ、徳川幕府の治世下であった江戸時代を通じ、彦根城を居城として近江の彦根藩主を収めた幕臣 井伊直孝の逸話を下敷きに生み出されたキャラクターである。
そんな井伊直孝について、今回は彼が如何なる人物、武将であったのかを微力ながら紹介していきたいと思う。
父は徳川四天王の一人、井伊直政
井伊直孝を語る上で抑えて置かなければならないのは、ぞの実父にして徳川家康を天下人足らしめた有能な家臣、その賞賛の証として、今日では徳川四天王の一人とされている井伊直政の存在だろう。
徳川四天王と言えば、酒井忠次(1527年生、1596年没)、本多忠勝(1548年生、1610年没)、榊原康政(1548年生、1606年没)、井伊直政(1561年生、1602年没)の4人で、因みに主君の徳川家康は1543年生、1616年没である。
この徳川四天王の中で酒井忠次のみが主君である徳川家康よりも年配であり、本田忠勝・榊原康政は5歳ほど年下、井伊直正は18歳ほども年下にあたり、井伊直正が他の3人と比べても若年にして家康の寵愛を受けた事が感じられる。
徳川家康自身は、父・松平広忠の嫡男として生を受けるが、当時の松平氏は三河の一豪族に過ぎず、幼少期は織田家、その後今川家の人質とされ、1560年に今川義元が織田信長に桶狭間の戦いで敗れるまで今川家の配下の一武将に過ぎなかった。
こうした中で酒井忠次は松平広忠の時代より、本多忠勝は今川家の人質時代から、榊原康政は松平家の陪臣から徳川家康の小姓として仕え、徳川家康の武将としての黎明期から付き従った間柄である。
一方で井伊直政は、今川家の直臣として父・井伊直親の代より今川義元・氏真父子に仕えたが、義元が織田信長に討たれると氏真には疎んじられ井伊直親は誅殺された。その後、井伊直政自身は1575年に徳川家康に取り立てられその直臣となった。
徳川家康の直臣となった時、井伊直政は井伊万千代を名乗ったが、当時敵対していた武田家の支配下にあった高天神城の1581年の攻略で武功を上げ、翌1582年に元服して晴れて井伊直政を称する事となった。
この年、織田信長が武田氏を滅亡させ、徳川家は天正壬午の乱を通して武田氏の収めてた甲斐・信濃を自国領に組み込むこ事に成功、井伊直政は三つ巴の争いとなっていた北条家との和平交渉を成す。
井伊直政の功績
この功により井伊直政は、武田家の旧家臣の一部を傘下に置くとを許され、武田家の猛将としてその名を知られていた山形政景が率いていた精鋭の赤備えの部隊を配下に加え、以後井「伊の赤備え」と称される部隊を徳川家の侍大将として率いる事となった。
1584年、織田信雄側に与し豊臣秀吉と対峙した徳川方において、井伊直政はこの赤備えの部隊を率いて小牧・長久手の戦いでも善戦、赤い甲冑に兜には大きな2本の角をあしらった出で立ちで「井伊の赤鬼」と呼ばれ武名を響かせた。
但し、小牧・長久手の戦いは織田信雄が豊臣秀吉に下る形で講和をした為、徳川家康も豊臣秀吉に臣従する事を余儀なくされたが、井伊直政の武勇と政治的な手腕の高さは豊臣秀吉にも高く評価され、位階の従五位下、豊臣姓が与えられた。
これにより井伊直政は、徳川四天王の酒井忠次、本多忠勝、榊原康政よりも一段高い地位を獲得、徳川家家臣団の中でも最高位の位置に置かれ、豊臣秀吉による小田原・北条氏の征伐後にはその関東移封に伴い、徳川家臣団で最も多い上野の箕輪に12万石を与えられた。
井伊直政は1600年に勃発した豊臣政権の跡目を巡る関ヶ原の戦いにおいては、事実上石田三成の率いた西軍に徳川家康の引いた東軍の軍監に本多忠勝と共に従事し、福島正則と先陣を切る働きを見せた。
ここで井伊直政は、西軍に与し敵中突破を試みた島津勢の鉄砲によって足を討たれ重傷を負い、敵の大将たる島津義弘は取り逃がすも、島津豊久を討ち折る武功を挙げ、戦後処理では西軍の総大将についていた毛利輝元との交渉も成功させている。
この関ヶ原の戦いでの働きにより、井伊直政は石田三成が収めていた近江の佐和山を与えられ18万石を有する事となり、それまでの12万石から実質的に6万石を加増された上、京に近い要地を任された。
井伊直政は近江の地を収めるにあたり、佐和山城から新たに彦根城を築城したが、1602年に関ケ原の戦いで受けた傷が原因とも言われ、享年42歳にしてこの世を去った。
井伊直政の跡を継いだ井伊直孝
井伊直政の死後、一旦井伊家はその嫡男であった井伊直勝が家督を継いだ。この間、井伊直政は後の徳川家の第二代将軍となる徳川秀忠の側近に起用され、徳川秀忠は1605年に将軍に就任、その3年後の1608年には上野の白井藩1万石の大名に取り立てる。
更にその6年後の1614年、徳川家が豊臣家の滅亡を企図し大坂冬の陣が勃発すると、徳川家康は病弱で治世面でも評価の低かった井伊直勝に替えて、自身の覚えもめでたい井伊直孝を井伊家の総大将に就けた。
但しこの大坂冬の陣においては、井伊直孝は豊臣方の真田信繁や木村重成などと対峙し、後世にも名高い真田丸の攻防戦において多数の犠牲を出す失態を犯したが、徳川家康が自ら指名した事もあってか不問に付された。
この翌年の1615年に井伊直勝が継いでいた井伊家の家督は、彼の者に統治能力が無いと徳川家康が判断、その指示によって井伊直孝が改めて継ぐ事となり、大元の彦根藩15万石を井伊直孝が、上野の安中藩3万石を井伊直勝が収める形とされた。
その同年には大坂夏の陣が勃発、徳川方の先鋒として井伊直孝は藤堂高虎と共に参戦し、先の夏の陣では苦杯を舐めさせられた木村重成、更に長宗我部盛親の軍勢を八尾・若江の戦いで下し、武将としての汚名返上を果たした。
この大坂夏の陣によって豊臣氏は滅亡、その貢献を評価された井伊直孝は5万石の領地の加増と従四位下侍従の地位を与えられ、その武勇は「井伊の赤牛」との二つ名で今に至るまで伝えられる事となった。
井伊直孝は名実ともに徳川幕府の治世下となった1622年には、居城の彦根城の築城を完成させて、その地理的な要衝から、豊臣恩顧の大名が多かった京より西の大名らの監視に注力、最終的に彦根藩は30万石まで拡大、徳川家臣団の中でも最大規模の石高を誇った。
1632年、自身の余命を悟った徳川幕府第二代将軍の徳川秀忠は、井伊直孝と松平忠明の2人を第三代将軍となる徳川家光の後見役として大政参与と言う役職に任じ、この役職は以後の徳川幕府の大老職のはしりと言われている。
それだけ厚い信任を徳川幕府から得た井伊直孝は、1659年の満70歳にして生涯を終え、彦根藩は幕末まで徳川幕府の屋台骨を支える譜代の大藩として幕政に関与し、開国を決断した時の大老・井伊直弼も輩出している。
ひこにゃんの元にもなった井伊直孝
冒頭でも述べたように「ゆるキャラ」のひこにゃんは、2007年に彦根の町おこしの一環として生み出され、殊に全国的な2010年以降の「ゆるきゃら」ブームを牽引した存在として、多くの人々に親しまれている。
このひこにゃんのデザインは井伊家当主武将のシンボルとも言うべき、2本の大きな角をあしらった兜を白い猫が被っているものだが、その白猫についても井伊直孝の逸話から起用されたものである。
この逸話とは、彦根藩の二代目藩主となった井伊直孝が、当時の江戸の郊外にあった武蔵国の荏原郡世田ヶ谷村(現在の東京都世田谷区)に鷹狩りに出かけた折に、白猫の招きによってその地にあった豪徳寺を訪れたと言うものである。
この時、井伊直孝は白猫の手招きによって豪徳寺に立ち寄ったとされているが、それにより急な雨を避ける事が出来たとも、落雷を避ける事が出来たとも伝えられており、なんにせよ白猫のおかげでそれらに遭遇せすに済んだとされている。
現在の複を呼ぶ縁起物の招き猫の由来には諸説があるようだが、この井伊直孝の逸話もその一つと目されており、昨今の彦根市にとってはこれ以上ない幸運をもたらした事は間違いないだろう。
家康の贔屓目も感じなくはない井伊直孝への処遇
徳川四天王と呼ばれている酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、その中で最も若く一番最後に徳川家の家臣団に加わったにも関わらず、最大の領地を得る事になったのが井伊直政。
個人的には自身も年を重ねた徳川家康が、旧来の重臣である酒井忠次、本多忠勝、榊原康政から、少し目先を変えて敢えて若手である井伊直政を重用することで、徳川家の新たな色を出したかったのではないかとも感じる。
その跡を継いだ井伊直孝も、大阪冬の陣では失態を見せたが、敢えてその責を問わなかった徳川家康の態度には、非常に個人的な感想ではあるが、自身の起用判断が誤っていたと思わせたくない思惑があったようにも思えてならない。
※画像はイメージです。
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