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薩摩に伝わる必殺剣「示現流」とその派生の薬丸自顕流

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日本における剣豪やそれらの人々が駆使した剣術と言えば、共に剣聖との誉の高い塚原卜伝の鹿島新當流や、上泉信綱の新陰流が現在においてもその人・流派ともに抜群の知名度を誇っているのではないだろうか。

そんな彼らとその剣術流派も最初からその形として世に広まった訳ではなく、塚原卜伝であれば鹿島中古流及び香取神道流を会得、上泉信綱も陰流を会得、その後にに自身の流派を起こすに至っている。
その為、そんな名うての剣豪からの薫陶を受け、その後に独自の流派として確立された剣術も数多く、例えば薩摩藩に広く遍く伝えられ、幕末期には日本を代表する剣術流派として知られるようになったものもある。

其れこそが戦国末期の薩摩藩の武士であった東郷重位によって創設された示現流であり、今日では示現流と言えば「チェスト」と言う掛け声と共に一太刀で相手を圧倒する剛剣と言うイメージが一般的である。
幕末を舞台として描かれた各種の小説や漫画、アニメ、映像作品等によって、この薩摩の示現流(実際には派生の薬丸自顕流)の遣い手のイメージは確立されている感が強いが、今回はそんな示現流について解説をして見たい。

目次

示現流の起こりと創始者「東郷重位」

東郷重位は「とうごう ちゅうい」若しくは「とうごう しげかた」と発し、戦国時代末期の1561年に薩摩の北方の龍力な土豪であっあ東郷氏、その一族である瀬戸口重為の三男としてこの世に生を受けた。
東郷重位は中央では織田信長、その跡を次いで豊臣秀吉が天下を治めんとしていいた天正期に本家である東郷性を名乗る事を許され、以後薩摩の戦国大名であった島津氏の直臣となってその勢力拡大に貢献した。

武士としての東郷重位は1578年11月に生起した、豊後を基板として九州の覇を競った大友氏との高城合戦に参戦したのが初陣とされており、その時点で肥後の南部を治めていた相良氏の家臣であった丸目長恵のタイ捨流を修めていたと言う。
丸目長恵は既に剣聖として著名であった上泉信綱に師事して新陰流を会得、見事その印可状を得た剣豪であり、後に自身の創意をこれに加えてタイ捨流とし、戦国期後の江戸時代にも肥後や肥前で隆盛を極めた。

東郷重位はそんなタイ捨流を修め島津氏に仕えていたが、同氏第16代当主の島津義久が1587年の豊臣秀吉による九州征伐によってその配下に下った事から、島津義久の上洛に同行し京へと上った。
但しこの頃の東郷重位は主君である島津義久の上洛の一行に加わっていたとは言え、島津家の内部での身分は高くはなかったようで、京では金属を加工する技術を身に着ける修練を行ったとも言われている。
しかし東郷重位はここで、現在の京都市北区に所在する天寧寺の善吉和尚と知り合い、僧侶の身でありながら彼の者が天真正自顕流の遣い手・免許皆伝者である事からその教え請い、1589年にかけてその修行に励んだ。

結果、東郷重位は善吉和尚から天真正自顕流の免許皆伝を許され、その印可状を得た後に薩摩へと帰国、最初に会得していたタイ捨流に加え、天真正自顕流の要素を組み入れ、独自の示現流として昇華させた。

東郷重位の示現流

こうして東郷重位は剣術の流派として、上泉信綱の新陰流、その流れを汲む丸目長恵のタイ捨流の会得、善吉和尚の天真正自顕流の会得と言う流れで、独自の創意を加えた示現流を創始するに至った。
東郷重位は自身の体躯が大柄であった為、膂力には秀でているものの所謂小回りは利かないタイプであった事から、敏捷性が求められるタイ捨流の型には収まらない事を自覚しており、その点で天真正自顕流を組み込む事に活路を見出したとされる。

薩摩に戻った東郷重位は、自宅の巨木に向かって打ち込みをひたすら続けると言う、己の膂力を最大限に発揮させる独自の訓練を3年にも及んで続け、その甲斐もあって次第に藩内で名の知れた剣術家となった。
その結果、薩摩藩内の他の武士達から試合を持ちかけられる機会が増え、それらの挑戦者を悉く打ち破った事で実力を評価され次第に弟子を数多く抱える存在となり、遂に初代藩主であった島津家久の目に留まる。

1604年、当時の薩摩藩の流儀であったタイ捨流の師範との試合を島津家久に命じられたが、その意図は声望を高めていた東郷重位の剣術よりもタイ捨流が格上である事を藩内に知らしめるものだっとされている。しかしこの島津家久に命じられ行われた薩摩藩タイ捨流の師範との試合において、東郷重位はその意図に反して勝利を収め、遂に薩摩藩の剣術指南役の座を実力で勝ち取り、示現流と言う流派名を与えられた。

薩摩藩主の島津家久にして見れば面目を潰された結果であり、東郷重位は手打ちに処されそうになるも扇子でこの動きを制したとも言われており、激高した島津家久ではあったが結果としてはその実力を認めざるを得なかったと伝えられている。
因みにこの薩摩藩タイ捨流の師範との試合において、東郷重位は相手の木刀を自らの初手の打ち込みの一撃で叩き折り、その強力な膂力を活かした初太刀の威力を見せつけたとされており、示現流の神髄を感じさせる。

幕末の京都で新選組も恐れた示現流の派生「薬丸自顕流」

薩摩の示現流と言えば、幕末の京において多くの維新の志士達を葬ってきた浪士集団として名高い新選組、その局長として自身も天然理心流の遣い手として名を馳せた近藤勇も隊士達に警告を与えていたと伝えられている。

曰く、薩摩武士と対峙する際にはその初太刀を外せと命じていたとも言われており、前述した示現流の開祖である東郷重位が薩摩藩タイ捨流の師範との試合において、相手の木刀を初手一撃で叩き折った事の脅威が受け継がれていた事を感じさせる。
但し幕末に京で猛威を振るった下級の薩摩藩士らの多くが習得していた剣術は、東郷重位が起こした示現流を学んだ薬丸兼陳が独自に派生させた薬丸自顕流と目されており、厳密には東郷重位の示現流とイコールではないとも言われている。

それでも東郷重位の示現流、その派生とも言うべき薬丸兼陳の薬丸自顕流ともに膂力を最大限に活かした初太刀の強力さは共通だったようで、その剣の在り方は今も多くの創作物の中でも繰り返し描写されている。

示現流の掛け声「チェスト」

示現流及びその派生形の薬丸自顕流の特徴として、その初太刀に渾身の膂力を込めて振り下ろす際の掛け声としては、「チェスト」と叫ぶ描写が多数の創作物の中でも使用されており、謂わば代名詞とでも言うべきものとなっている。
この「チェスト」と言う掛け声は、一説には「知恵を捨てよ」と言う示現流の神髄を表す言葉のひとつがなまったもので、結果として日本語と見做すには難しい特異な響きを持った言葉になったと言う俗説がある。
しかし今日ではこれは江戸時代の後期に創作物の中で流布されたもので、実際には示現流や薬丸自顕流の掛け声として使われてはいなかったと言う説が有力視されているようだ。

実際の示現流や薬丸自顕流の掛け声は、「えい」と叫ぶ気合を入れた発生が猿叫のような発声に聞こえると言う事のようで、正に人気漫画の「ゴールデンカムイ」の薩摩隼人の代表・鯉登少尉の掛け声が実態に近いのかも知れない。
創作物と言う括りでは物語シリーズが人気の西尾維新氏の作品の中で、「刀語」のキャラクターであるとがめが誤って「チェスト」を「チェリオ」と発声していた描写も高名で、カルトな人気を博している。

但し個人的には、アニメ版の「空手バカ一代」で主人公の飛鳥拳が技の発動時の掛け声にて「チェスト」を連発していた事が今も頭にこびりついており、若い方にも是非見ていただきたい作品である。

示現流と創始者の東郷重位の実績

示現流を創始しその実力によって1604年には薩摩藩の剣術指南役にまで上り詰めた東郷重位だが、戦国の世も終わりを告げつつあった時代にあって、道場剣法に留まらず実際に人を真剣で斬ったと伝えられている。
その行為は全て薩摩藩による上意の命によって行われたものとされているが、実に19名もの人物を愛刀にして名刀とされる「同田貫」で斬っており、評価にたがわぬ実戦的な剣法であった事が偲ばれる。

東郷重位自身も1643年に83歳で天寿を全うしており、稀代の剣術家にしてこの時代にここまで長寿であった事は、心身ともに頑健であった事の何よりの証左ではないかと感じずにはおれない。

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