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地蔵に手を合わせてはいけない説への反論

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スピリチュアル界隈かマナー界隈で、「地蔵に手を合わせてはいけない」という話が喧伝されていたようだ。
こういう話は、話題に上げる事で再燃させるという側面もあるので、まずは結論から語るべきだろう。

手を合わせてはいけない地蔵像などない。単なるインプレ稼ぎなので、気にしなくて良い。
これが結論である。

目次

地蔵とは何か

地蔵は、私が「腑に落ちる」と感じ、「好ましい」と思う神格の1つである。つまりポジショントークである事は、予め宣言しておこう。
立場をはっきりさせず、絶対普遍の真理を装ったポジショントークほど危険なものはない。

仏教も1枚岩ではなく、オカルトは尚のことで、地蔵については複数の解釈があるが、まず、ある程度客観性を意識した説明をしておく。

地蔵とは地蔵菩薩の尊称である。
菩薩とは、仏教における神格の一分類である。
仏は悟りを開き、輪廻転生から解脱した不死の存在だが、菩薩はその前段階とされる。
地蔵菩薩がその段階で留まっているのは、「全ての魂の解脱を助けた後に自分が解脱する」という誓いを立てたから、とされる。
このため地蔵菩薩は、仏とほとんど変わらないパワフルな存在でありつつ、衆生に対する執着、すなわち愛情を残しており、比較的直接的な加護を与える。

親より先に死んだ子が、三途の川の河原で無限に石積みをさせられるのを救うのは、地蔵菩薩だけであるとされる。また地蔵菩薩は閻魔大王を化身に持つという考えもある。
閻魔大王は、善人にとっては恐ろしいものではない。
悪人に対しても、悪業消滅、罪を濯ぐのに手を貸してくれる。悪人が落とされる地獄は、ただ責める場ではない。責め苦によって罪を濯ぎ、綺麗になった魂を新たな命に生まれ変わらせるためのものだ。罪が消えるまでに何億、何兆年かかろうと、見捨てる事はないのだ。

このような慈悲深い地蔵菩薩にあやかるため、各所に地蔵像が造られている。
誰もが救われるため、思い思いの方法で作る。現在は石像ばかりが残るが、恐らく木造や画像も無数に存在したろうし、砂浜や畑の土に描かれた事すらあったろう。
故に数は多く、その仕上がりも、作った者にしか人工物と分からないような、粗末なものもある。

「地蔵に手を合わせてはいけない説」の矛盾

「地蔵に手を合わせてはいけない」説の場合の根拠は、ざっと見た感じ、次のようなものだ。

  • 上手く管理されていないような地蔵の場合、それに縋ろうとする悪霊の溜まり場になっている。
  • これに近付いて手を合わせると、悪霊に目を付けられ取り憑かれる。

さてさて、この説、

  1. 悪霊が力を持つ(実在する)
  2. 地蔵が力を持つ(実在する)

という2つの前提を、都合良く使い分け過ぎていないだろうか。

まず、「1. 悪霊が力を持つ」を、「真」とするならば、「2. 地蔵が力を持つ」も「真」である。
この時、地蔵の力は当然悪霊より明確に強い。
従って、「3. 地蔵が悪霊を往生させる」という「解」に到達し、悪霊の溜まり場は発生しない。

つまり、「地蔵に手を合わせても、あなたに悪霊は取り憑かない」となる。

次に、

  1. 悪霊が力を持つ(実在する)
  2. 地蔵が力を持たない(実在しない、または伝承と異なる)という命題をそれぞれ「真」とした場合
  3. 「悪霊が地蔵に集まらない」という「解」に到達し、この時、地蔵が悪霊を往生させないため
  4. 悪霊が世界から消えないという「解」にも到達する

当然、世界は悪霊で一杯になるため、地蔵に手を合わせる人も手を合わせない人も、悪霊に取り憑かれるとなる。

地蔵と悪霊に力がある、1、2が「真」の世界に絞って考えよう。
この世界で地蔵像の管理の有無や、目的の有無で悪霊を往生させる力に差が出る、というのは、地蔵菩薩の設定と噛み合わない。

先に述べた通り、像が綺麗に作られているから功徳があるというものではない。
そもそも、仏教は偶像崇拝禁止である。
地蔵像は、地蔵菩薩本体ではない。そして依代やゲート、監視カメラのようなものでもない。

地蔵は欲界(人間界)に留まっている存在なので、見ようと思えば死角はなく、行こうと思えばどこにでも行ける。弘法大師伝説の弘法大師の上位互換だと思えば良い。
解脱していないので全知全能には1歩及ないにせよ、多智多能である事は間違いない。およそ人間が考えられる程度の事は何でも出来る。
つまり、地蔵像の本質は、「お地蔵様に願っている」という、人の意識や行動を明確化させるためのツールに過ぎない。

従って、地蔵像のコンディションがどのようなものであろうと、明確に「地蔵に頼る」姿勢を見せている人を、地蔵が助けない訳がない。

秘めたる宗教心に任せよう

結論を繰り返すが、「地蔵に手を合わせてはいけない」説を語る者の動機は単なるインプレ稼ぎだ。
常識的に正しそうな事に逆張りすれば、何かしら人の目が集まる。
人の目が集まれば、アフィリエイト収入や承認欲求が得られる。それだけの事で、理屈は後付けに過ぎない。

例えば、
「手入れの行き届いた地蔵に手を合わせてはいけない。頼りになるからと悪霊が集まっているから」
「手入れの行き届かない地蔵に手を合わせてはいけない。悪霊が残っているから」
「手入れが程々の地蔵に手を合わせてはいけない。悪霊が留まるか離れるか迷っており、人に付きやすい」
どれが逆張りになっているか、時に応じて使い分ければ良いだけのマルチプルアウト、話術や論法の類だ。
娯楽には良いが、人の行動を導く助言には全く適さない。

他人の思い付きの逆張りに流されてはいけない。
昔話のかさじぞうで、お爺さんに福を授けた地蔵が、どれほど管理されていたか。
汚れている、倒れてる地蔵を手入れして、祟られる気がするだろうか。

「何となく、やった方が良い気がする」というのは大事だ。

霊的なもの、神聖なものに関しては、小さい頃の人格形成と同時に染みついた、当たり前の感覚に従って接するべきだ。その感覚が案外、秘めたる信仰心として、深層心理に絡みついていて、心身へ実際に影響を与えていたりするものである。

※画像はイメージです。

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