神奈川県や関東地方の出身者及び在住者ではない一般的な日本人として、鎌倉と聞いてイメージするのは、何といっても寺院・高徳院の鎌倉大仏や、風光明媚な由比ヶ浜の海などの名所ではないだろうか。
そして日本の歴史上の観点からすれば、平氏との戦いに勝利し、日本史上初の武家政権として源氏の棟梁となり、朝廷から征夷大将軍の地位を得た源頼朝が創設した鎌倉幕府が置かれた場所として著名だ。
私などのように日本で20世紀に学校教育を受けた者にとっては、鎌倉倉幕府の成立年は1192年だと暗記させられたが、21世紀に入って再検討された結果、今ではこれを1185年とする学説が主流となっている。
しかしこの1185年の鎌倉幕府成立説は、21世紀に新たに浮上したものではなく、実は太平洋戦争の前まではその学説の方が主流であり、寧ろ回帰した結果となっていると言うのが正確な表現のようだ。
何れにせよ鎌倉は日本の歴史の中において古都として認識されていると思え、近年では2022年放送のNHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」や、今年2024年7月期から放映されている「逃げ上手の若君」の舞台として再注目されている。
今回はそんな鎌倉幕府の政務の中心地であった鎌倉について、鎌倉幕府を巡る歴史を中心として、及ばずながらご紹介して見たいと思う。
源頼朝が本拠地とした鎌倉
源頼朝は、後の戦国時代に天下を獲った三英傑と称される尾張の織田信長・豊臣秀吉、そして三河の徳川家康らと同様に、現在の愛知県の熱田で1147年に生まれたとする説が有力で、その後、実父の源義朝らと京の都で朝廷に仕えた。
1159年に生起した平治の乱において源頼朝は官軍となった平清盛らに敗れて捕縛され、当然処刑される運命と思われたが、平清盛の継母であった池禅尼らが未だ年若い彼の助命を唱え、伊豆への流配で一命を取り留める。
ここまでの流れでは源頼朝と鎌倉の接点はないように感じられるが、彼の5代前の祖先の源頼義は、当時の朝廷の命を受けて陸奥の安倍氏を討伐、その功から相模守の官職を得て鎌倉を下賜された人物である。
源頼義はこれを機に源氏の氏神であった京の石清水八幡宮を勧請、鎌倉の由比ヶ浜に由比若宮を建立した為、後の源頼朝は自らの源氏一族として記念すべき地と鎌倉を捉え、幕府の政務の中心地に選んだと目されている。
鎌倉を自らの幕府の本拠地に定めた源頼朝は、その後に由比若宮をもっと内陸部に鶴岡八幡宮として拡大・移転させ、ここが今日も鎌倉の名所として多くの参拝客を集める事に繋がっている。
こうした信仰上の側面以外でも、源頼朝が鎌倉を幕府の設置場所に選択した理由は、同地が北・西・東側に山、南側に相模湾を臨む地形である為、いざ攻められた場合に非常に堅固な守りに向いた要地だった故とも伝えられている。
源頼朝による鎌倉幕府の設立
源頼朝が鎌倉幕府を設立する契機となったきっかけは、当時の朝廷において一族で要職を独占し事実上の支配者となっていた平氏に対し、1180年に後白河上皇の第3皇子であった以仁王が全国の武士に平氏を討伐すべしとの命を発した事にある。
この命に呼応し流配先の伊豆で挙兵した源頼朝は、日本国中で起こった所謂源平合戦に加わり、実際の戦は彼の義理の弟である源義経が担い、自身は拠点とした鎌倉にあって東国を中心とする支配基盤を構築していった。
戦上手の源義経は1185年には壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させたが、その後源頼朝は名声を得た彼を排除する動きを強め、源義経と彼を匿った奥州藤原氏を1189年に滅ぼし、源氏の頂点に君臨する。
この源義経と奥州藤原氏の討伐の過程で、源頼朝は全国にその地の治安維持を担う守護と、年貢徴収と貴族所有の荘園の管理を担う地頭を置く事で支配力を強め、自身の基盤である東国以外にも勢力を拡張する事に成功した。
そして源頼朝は拠点とした鎌倉に、配下の武士(御家人)を管理・監督する侍所、政務や財政を取り仕切る政所、司法を担う問注所を置きし、日本史上初の武家政権による鎌倉幕府の礎を整える。
こうして自身の権力基盤を整えた源頼朝は、1192年に朝廷から征夷大将軍に任じられ名実ともに天下人に近づき、1221年に後鳥羽上皇が巻き返しの挙兵をするも、その反乱を抑え込み京にも六波羅探題を置いて勢力下に組み込み、武家政権を確立した。
鎌倉幕府の権力構造の推移と滅亡
こうして源頼朝によって確立された鎌倉幕府は以後1333年まで続くが、その権力の構造は時と共に変化しており、今日的な解釈としては主に4つの段階を経て継続されたと考える学説が主流となっている。
先ず一つ目は源頼朝から始まる征夷大将軍が世襲で3第続くものの、その直系が断絶すると以後4代目から9代目までは朝廷からその地位に就く人物を迎え、征夷大将軍とは事実上形式的な存在と化した。
次にこうした征夷大将軍の形式化の裏では、源頼朝の正妻・政子の実家である北条氏が執権と言う役職について、実質的に鎌倉幕府の権力を手中に収める体制へと変化していった。
続いて鎌倉幕府の第2代執権を務めた北条義時の嫡流が得宗と称され、世襲的に権力を独占する体制となり、更に晩年にはその得宗の陪臣で執事にあたる内管領が実質的な支配者となっている。
そもそも源頼朝の実子で征夷大将軍を継いだ第二代の頼家、第三代の実朝の2人は執権を務めた北条氏が暗殺、その後も彼らは政敵である鎌倉幕府の有力な配下の武士(御家人)を滅ぼしており、かなり血生臭い。
鎌倉幕府の滅亡と「逃げ上手の若君」
1318年に後醍醐天皇が即位して、1331年には倒幕の企みが露見、後醍醐天皇は鎌倉幕府によっては隠岐島へ流罪に処されるも、楠木正成を始め各地で反乱が多発、その鎮圧に足利高氏(後の尊氏)が幕府から京へ派遣された。
足利尊氏は鎌倉幕府の配下の有力な武士(御家人)であったが、京で後醍醐天皇側に寝返り、幕府の六波羅探題を襲撃、陥落に追い込み、これにより全国で反幕府勢力の台頭を促した。
こうした状況下、関東の上野では新田義貞が兵を挙げ、当初は僅かだったその軍勢は鎌倉幕府に不満を抱える関東の武士たちの支持を得て急速に拡大、万余を超す大軍となって鎌倉を攻め落とし、幕府を滅亡させた。
この時、鎌倉幕府の第14代執権の地位に就いていたのが北条高時で鎌倉の陥落時に自刃して果てたが、その次男が2024年7月期から放映されているアニメ「逃げ上手の若君」の主人公・時行で、彼は何とか鎌倉から逃がれ以後、足利尊氏と対峙する。
北条時行は足利尊氏を向こうに回し、1335年、1337年、1352年の3度に渡って鎌倉の地を奪還したものの、何れも短期間で奪い返され、3度目の奪還の翌年1353年に捉えられて処刑されたと伝えられている。
室町時代以後の鎌倉
鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇が一時的にではあるが、朝廷による全国支配を建武の新政によって行った際には、鎌倉には鎌倉将軍府が設置され、関八州に伊豆と甲斐を加えた地域を管理する体制が敷かれた。
鎌倉将軍府は前述の北条時行による最初の鎌倉奪還時の1335年に崩壊したが、足利尊氏が室町幕府を起こし天下を掌握すると、再び関東の支配を確実なものとする為の機関として1349年に鎌倉府が設置された。
そんな鎌倉府も室町幕府内部の権力抗争の果てに、1445年には関東の支配は下総の古賀府が担う事となり、以後鎌倉は政治上の要地として扱われる事は無く、戦国時代には伊勢宗瑞が領地に組み入れた。
伊勢宗瑞の嫡子で跡目を継いだ氏綱は、自家が鎌倉を始めとする関東の支配の正当性を強めるには、かつて鎌倉幕府を支えた北条姓を称する事が有効と判断したようで、伊勢から北条へと名乗りを変えている。
以後、5代続いたこの北条家も豊臣秀吉に滅ぼされ、鎌倉は徳川家康が引き継ぎ、江戸幕府が起こりその中期以降の太平の時代に鎌倉の寺社の復興が進められた事で、今に通じる観光地となっていった。
鎌倉が持つイメージ
これまで述べてきたように、鎌倉が歴史の表舞台に立つ要地と化したのは、源頼朝による鎌倉幕府の成立がこの地を本拠地とした事が大きいが、以後の歴史の中で最終的に戦国の世を統べた徳川家康の領地となった点も無視できない。
冒頭でも触れたように、昨今はNHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」や、漫画及びアニメの「逃げ上手の若君」で注目を集めている鎌倉だが、鎌倉時代の最盛期には凡そ3万人、そして2024年7月現在は凡そ17万人が暮らす街として続いている。
そんな中で個人的に鎌倉と聞いてイメージする作品と言えば、横溝正史氏の「悪魔が来りて笛を吹く」の舞台だった事が思い出され、久々に映画でも見返して見ようかなと考えてしまう。
因みにインターネット上の書き込み等を眺めていると、歴史的に確かに血生臭い経緯を辿った故か、鎌倉には多数の霊が溜まっていると言うような主張が多々見受けられ、少し残念な気分にさせられる。
※画像はイメージです。
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