我が国の歴史で神武天皇以後、2代目の綏靖天皇から9代目開化天皇までの8人に関する歴史の記録が限りなく少なく、どのような人物であるか、その時代に何があったのかがはっきり分からない時代なのだ。
そのため、『欠史八代』と言われており、情報の少なさから、皇室の起源をより古いものとするため、後世に追加された疑いがあり、その実在性が怪しいというのだ。
ある古史古伝には、実在する人物とされているものがあり、それは、どのような背景なのか、そして何を成した人物だったのか。
記紀による古代天皇
神武天皇が日本で初めて天皇になったのは、紀元前660年と言われている。
その次の綏靖天皇から、いわゆる記紀に関する系譜のみで事跡がほぼ無いのだ。
綏靖天皇は、異母兄弟の兄に命を狙われ返り討ちにして天皇位に昇ったが、それ以外の事績はほぼ無い。
第3代天皇である、安寧天皇から9代開化天皇までは、普系のみで事績は無いのだ。
そのことから、事績が無い天皇達で実際にはいなかったのではないかという、定説が広がり『欠史八代』と言われるようになった。
これは、記紀を編纂した時に、他国に日本の歴史を素晴らしいものと見せるためのでっちあげなのか。
初代神武天皇と10代崇神天皇が、漢字は違えど『ハツクニシラシシスメラノミコト』という呼び名で同じことから、同一視までされており、その間の欠史八代は架空の人物とされている論もある。
他の古史古伝では
注目するのは、『ウエツフミ』での記述だ。
そこには、『ウガヤ朝』という神武以前に何十代続く系譜があり、その第73代ウガヤフキアエズ朝の天皇で、その子カムヌナガワが74代目となるだろうという記載がある。
そして、その後の系譜が断筆しているのだ。
このカムヌナガワこそ、綏靖天皇を指しているという。
ここで、物語が無くなっているのは、そこからウガヤフキアエズ朝が何者かによって攻め滅ぼされたのではないかという見解がある。
しかし、他の古伝『竹内文書』や『宮下文書』については、綏靖天皇以後も王朝は続いているように描かれている。
神代の時代から西日本一帯は高天原の領土として有り、九州や四国は中国や朝鮮などの海外から狙われる地域だったという。
その後ウガヤフキアエズ朝末期には、九州で天変地異があり、そこで生活することが困難になったことで、東方の橿原へと遷都したという話を、富士王朝を記した『宮下文書』にも記してある。
そこから、日本は大和王朝が始まったと言えるのかもしれない。
しかし、中央での大和王朝も長くは続かず、第4代懿徳天皇の時代に飢饉があり食料を確保してる天皇家に反乱するように、周辺豪族が侵略し、九州へ遷都せざる負えず、5代孝安天皇から8代孝元天皇まで『孝』の付く天皇は、九州で即位しているという。
こうして、各地豪族が力を持って争う大和大乱となり、九州で力を蓄えた孝霊天皇の時代には、当時の強国吉備を滅ぼしたのだ。
開化天皇の時代には、再度大和を征し、天皇家は東遷できたという。
争わない平和な政略
大和大乱があると言った史実があることで、我が国日本も国内で戦があったことは否めない。
しかし、事実、日本人の人種の遺伝子を解析すると、他国と違うD系を持つ人種であり珍しく戦をして征服されていったようなものではないという。
これはどういうことであろう。
一つの見解として、天皇家に征服されたという見方も一理あるのかもしれない。
だが、ある説では、綏靖天皇から欠史八代の時代は、他豪族と共に平和な治世を歩もうとしていたという。
その政策は、互いの政略結婚だという。
天皇家、その他豪族も、とにかく男女を結婚させて婚姻関係を結ぶ。
そうなると、親族となり戦争をする事を躊躇うこととなる。
そのために、系譜のみで事績が無く平和な世だったと言われるのだ。
縄文の統治は1万年以上続いた平和な世だったが、まさにこれが主流だという説もある。
『日本人は皆兄弟』という言葉があるが、これは古代天皇の政策による、すべて国民・地方豪族たちは親族だったという事にちなんでいると思われる。
は、末端の平民にも通常行われていた事で、だから、昔の人は、町内・近所は、当り前のように声を掛け合い、近しい関係を築いていたのか。
最近は、隣の家も声を掛け合わない、非常に窮屈な時代となった。
近所トラブルや、いざこざ、社会でも口を開けばハラスメントと言われる時代、これは本当に平和と言えるのだろうか、感慨深い。
※画像はイメージです。
思った事を何でも!ネガティブOK!