太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月に始まったフィリピンのレイテ島での攻防戦
日本軍はレイテ島にある米軍が占領している飛行場を空挺部隊で奪還する作戦を実行した。
レイテ島の飛行場
日本軍に占領されたフィリピンを奪還すべく米軍は1944年(昭和19年)10月20日にフィリピン中部のレイテ島へ上陸します。レイテ島へ一度に4個師団も上陸させた米軍は沿岸部で守備をしている日本軍第16師団を内陸へと退かせた。
こうして米軍はレイテ島北東部に作られたタクロバンとドラッグの日本軍飛行場を占領し、内陸部にあるブラウエン飛行場も11月には占領されていた。
どの飛行場も米軍の航空部隊が進出するには規模が小さく、整備が必要であった。
こうした理由から米軍は戦闘機を十分な戦力を展開できず、フィリピンの日本陸軍航空隊が優位に立つ時期が11月初旬まで続いていたが、米軍が飛行場の整備により戦闘機を増強すると米軍がレイテの空を確保しつつあった。
黛空挺部隊の出撃
新型戦闘機の「疾風」を投入した日本陸軍航空隊でしたが、戦力を増したレイテの米軍航空戦力に航空戦で挽回は難しくなっていた。
そこで日本軍は空挺部隊を投入した飛行場奪還作戦を立案した。
この第1回として11月26日に台湾の高砂義勇兵からなる40人の黛空挺隊が出撃しました。
本来は密林での生活に慣れた高砂族の義勇兵はゲリラ戦部隊として編成と訓練をしていましたが、レイテの戦局の悪化により輸送機で胴体着陸をして飛行場へ突撃する特攻と言える任務に投入された。
しかし出撃した黛空挺部隊を乗せた輸送機は米軍飛行場へ到達したか定かではなく、1機が不時着してレイテの現地部隊と合流した。
空陸共同作戦
日本軍は続けて高千穂部隊こと第2挺身団による作戦を実行します。
12月6日に第2挺身団の460人はレイテに出撃した。
輸送機だけではなく、護衛戦闘機や爆撃機も伴う大編隊はブラウエン・タクロバン・ドラッグの飛行場へ向かい、空挺兵は落下傘による空挺降下や輸送機による胴体着陸で飛行場へ突入した。
突入した第2挺身団は米第11空挺師団と戦闘になり、同じ空挺兵同士の戦闘であったものの砲兵や援軍を投入できた米軍が日本軍空挺部隊を追い詰める。
今回は空挺部隊だけではなく、地上部隊である第16師団と第26師団と共同した和号作戦が展開された。しかし第26師団の1個大隊だけがブラウエン飛行場に突撃するものの、米軍が飛行場を守り通した。
米軍の反撃で日本軍空挺部隊は撤収を強いられ、地上部隊の友軍と合流して戦い続けます。
戦果は一次的な飛行場の米軍を混乱させ、航空機など飛行場に損害を与えたものの飛行場の奪還とはなりませんでした。
featured image:Imperial Japanese Army, Public domain, via Wikimedia Commons
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