この話は私の祖母の体験談です。戦時下の生活で、こんなにも戦争に苦労しないことがあるのか。
と思うような祖母のお話はいつもどこか面白くて、そして逆に、少し不平等に感じていました。
戦前に陸軍省に勤めた祖母
祖母は大正12年生まれですので、第二次世界大戦中はもう女学校も卒業して就職していました。祖母は長野で有名な商家の出身でお嬢様でしたので、祖母のきっての希望で東京に就職しました。
祖母は外国文化が大好きでお味噌汁が大嫌いなハイカラさんでしたので、初任給を全額はたいて当時銀座くらいでしか手に入らなかった香水を買ってしまいました。
今でも銀座が大好きで、戦前の銀座に思いをはせては買い物をたくさんしたと語ってくれました。
陸軍省に入ってしばらくして配給制度が始まりましたが、その配給の仕方が珍しく、くじで当たった人から好きな物品を選択して配給される。というもので祖母は引き運が強いので、いつも良いものばかり当たっていたそうです。
実家の長野に帰ってくる
戦火近づく昭和19年の暮れに、実家の長野に帰ってくる事になりました。
東京も空襲が激しくなってきたので、長野の両親の強い希望で祖母は実家に戻されました。
ただ長野には陸軍省がありませんので、紹介状を書いてもらい糧秣省という、軍の食品・物品を管理するところに異動になりました。
昭和20年にもなると普通の配給は底をつき、農家が多い長野県では食料の確保でできていても、生活用品は皆無というほど手に入りませんでした。
そんなことを知ってか知らずか、祖母は洗濯のとき、たらいに石鹸をこすりつけ、もくもくと泡に囲まれながら服を洗っていました。石鹸などは一切手に入らない時代です。近所の人が祖母に「泡を頂けないでしょうか」と言われました。祖母は「自分の勤めている糧秣省には、石鹸は余るほどありますよ。泡なんてそんなこと言わないで」と石鹸を配ってしまいました。
こんなこと許されるのでしょうか?結局祖母は、自分の運の良さと職場の良さにより、戦争のつらさを何も知らずに終戦を迎えました。
※画像はイメージです。
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