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お弁当が豪華すぎて同級生に申し訳なかった

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祖母から初めて聞いたとき、笑ってしまった話です。
まあ、笑ってはいけないんですが、友達が小さなサツマイモを食べている横で、祖母は山盛りの白いごはんを食べていたそうです。

目次

戦時中、食事に困っていなかった!?

戦時中、祖母は小学生(国民学校初等科)でした。
詳しいことはわからないのですが、終戦まで疎開せずに自宅から学校に通っていたそうです。

昼食は、各自お弁当を持っていって食べていました。当然、ほとんどの子はサツマイモだけと貧相な食事でした。まさしく、戦争漫画や体験談で聞くような感じだったそうです。
私も、国会議事堂の前が畑になっている写真を見たことがありますが、祖母が住んでいる街も周り中が畑になっていたそうです(もっとも、祖母は「当時は、遊べる場所がなくなったことの方が大変だった」とちょっと不謹慎なことを言っていました。)

そんな中、祖母は白いごはんがぎっちりつまった、日の丸弁当を毎日食べていました。なぜなら、曾祖母の実家が田舎の米農家だったからです。祖母も詳しいことは記憶していなかったのですが、かなり大量のお米が届いていたそうです。
少なくとも、家族全員が毎日白いごはんを食べていたのは間違いないと話していました。

ただ、周りがサツマイモを食べているなか、1人だけ白いご飯を食べるのはかなり申し訳なかったそうです。それでも、終戦まで日の丸弁当を食べていたのですから、祖母もなかなか「いい性格」をしていたと思います。

ちなみにこれは、「戦時中に食料が足りなかったのは嘘だ!」という話では決してありません。
戦時中においてさえ政府は食料の公平な配分をできていなかった・・・という話です。あるいは、地方から都市部への食料が運ばれていなかった(流通の破壊)という話です。

家族の中だけの笑い話

また、今まで書いていたのは母方の祖母の話なのですが、父方の祖母も戦時中は苦労しなかったと話していました。
父方の祖母はどこぞのお屋敷のお手伝いさんとして働いていたそうです。父方の祖母から聞く「戦争体験」は、お屋敷のご飯がどれだけ美味しかったかというグルメ情報だけでした。

また、2人の祖父も終戦直前に内地(房総半島・五島列島)に配置されて、そのまま戦わずに帰ってきました。
第二次世界大戦は多くの人にとって悲惨なものでしたが、なんだか私の祖父母たちは楽しく暮らしていたようです。
(まあ、孫である私に悲惨なことを言わなかっただけかもしれません)

こんな「戦争体験」は周りの人には言えないので、家族の中だけの笑い話です。

※画像はイメージです。

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