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源頼朝の謎の最後について考察

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武家政権のきっかけを作った源頼朝の最後は謎に包まれている。
歴史を記録などを参考にしながら、源頼朝最後の謎を考えていきます。

目次

源頼朝の死

鎌倉幕府の初代征夷大将軍である源頼朝は1199年1月13日、この世を去ったとされていますが、その最後の様子を詳細に記述する文献がほぼ存在しないのです。

京都の公家であり小倉百人一首を編纂した著名な歌人である藤原定家は、その著「明月記」の中で頼朝の最後についてわずかに「頼朝が亡くなり、急死であった」と記述のみにとどめています。

また当時、関白の地位にまで昇りつめ、その温厚な性格が幕府からも信任され、承久の変の後の朝廷と幕府の関係改善に努めた近衛家実の記した「猪熊関白記」には、頼朝の最後に様子について「頼朝は重い飲水の病になり、その後亡くなったという話を聞いた」と記述しています。
飲水の病とは、水を過度の飲みたがる病気であり、この記述から頼朝は重度の糖尿病か、尿が過度にでて体が乾いてしまうという病気の尿崩症ではと言われています。

他にも南北朝時代の歴史書では、頼朝が滅ぼした多くの御霊の霊を頼朝がおそれた事がきっかけとなり、体調を壊したなどと記した「保暦間記」などがある、実際の頼朝の死についての憶測は後を絶たないのです。

なぜ最後がはっきりしないのか?

そもそもなぜ頼朝の最後がはっきりしないのか?
当時の武士の最高権力者の最後がなぜ記述されていないのか?
そのカギを握る重要な資料が鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」です。

実は驚くことに頼朝に関する記述は「吾妻鏡」の1195年12月22日、「友人に出会うため出かけたという」を最後、頼朝に関する一切の記述がなくなり、その後、頼朝の事が出てくるのは死後13年も経過した後なのです。

「吾妻鏡」の記述によれば頼朝の最後から13年後、将軍3代将軍である源実朝の時代、相模川の橋が数か所壊れており、有力御家人の三浦義村、北条義時、大江広元などが議論を行い、橋の修理をすべきか否か議論。その際、あの橋は頼朝公が橋の落成式に参加した帰りに落馬し、それが原因で死に至った縁起のよくない橋であるから、そのままにして修理する必要性はないと決めた事を実朝に報告しています。

この記述で初めて、頼朝の死が公式記録として述べられ、これが有名な頼朝落馬説の根拠となる記述です。
前述の公家の記録からは落馬についての言及はないが、「吾妻鏡」がこのように記述するのだからこれが真相ではないかと
言われている根拠です。

吾妻鏡に記載されていない

不可思議な事に頼朝の最後の様子は、鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」には記載されていません。「吾妻鏡」には、1196年から1199年の頼朝の死の直後までの記録がそもそも欠落しているのです。

再開された記録には、頼家が2代将軍に就任した事のみが記述され、頼朝がこの世を去った事が明らかになる記述はまさに、
頼朝の死から13年後の橋の落成式の際の落馬の記載のみだったのです。

どうしてこのようになったのか、実は「吾妻鏡」を愛読していた徳川家康が、関東に根拠を置いた後に本格的に「吾妻鏡」の
取りまとめ作業を行い現代に残る「吾妻鏡」が完成したと言われています。

2つの仮説

ここで2つの仮説が成り立つと考えます。
ひとつは家康が「吾妻鏡」のとりまとめ作業をする前から頼朝の最後について、最初から記載されていなかった。
もう一つは、家康もしくは家康の側近が、頼朝の最後の様子は将軍権威の確立をする上で問題があると考え、後の世に残さないほうがいいと判断し、あえて削除したのか?

それは今となってはまさに謎であります。
頼朝は53歳でこの世を去っています。今少し彼に時間があれば、源氏の未来や鎌倉幕府の未来も少し変わっていたかもしれません。
頼朝の最後は永遠の謎として、話題の尽きないミステリアスな話だと考えます。

※画像はイメージです。

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