歴史上の偉人の中で人気の高い坂本龍馬。
彼は志半ば、暗殺によって幕を閉じ、その犯人はいまだ確定しておらず謎を残したまま。
龍馬暗殺の犯人は、幕府、薩摩藩、土佐藩など様々な説がありますが、実は龍馬と共に襲撃されたと言われている、中岡慎太郎が真犯人だという説もあります。
今回は、この中岡慎太郎犯人説について考察していきます。
龍馬暗殺の状況
龍馬暗殺の状況を整理します。
龍馬と中岡は京都河原町の醤油商近江屋の母屋二階にて密談中、そこに午後9時過ぎ、何者かが龍馬に面会を求めてきました。
そして、彼らは取り次ぎにでた下男の藤吉を斬殺、龍馬のいる2階の座敷に乱入し、いきなり龍馬、中岡に斬りかかります。
龍馬は額を真横に斬られ、中岡は両手両足を斬られ、特に右手はほとんど切断される傷を負います。
事件直後、土佐藩士が駆けつけたときにはすでに龍馬は死亡。辛うじて息のあった中岡は、この際に藩士たちに襲撃の状況を説明し、2日後に絶命しました。
龍馬暗殺は京都見廻組?
龍馬暗殺の実行犯として様々な供述から、幕府に属する警察組織である京都見廻組であるとの説が有力視されてますが、京都見廻組を犯人とすると2つ疑問点があるのです。
一つは、事件の現場となった近江屋が、龍馬の属する土佐藩邸のはす向かいに位置していたという点。
藩邸の門の前には番兵もいるはずで、幕府の配下である見廻組がこの暗殺を行ったのであれば、彼らが無傷でその場を離れることは極めて不自然と言えます。近江屋の近くには龍馬と同じ倒幕派の長州や薩摩の屋敷もあったことを考えると、見廻組にとってこの暗殺はかなり難易度が高かったのではないかと思われます。
の二つ目は、京都見廻組が龍馬を殺害したのであれば、それは公務として行ったことになるはずで、それにも関わらずこのことを公にしなかったということです。龍馬は京都の寺田屋で伏見奉行所の役人に襲撃された際にピストルを五発放ち、そのとき被弾した役人二名がその時の傷がもとで死亡しています。
そのため京都見廻組が龍馬を襲撃したのであれば、それは役人殺害の犯人である龍馬を捕縛あるいは無力化するために行ったことになるので、あえてそれを公にしなかったということは不自然と言えます。
つまり京都見廻組が犯人とするのは難しい。
そうすると誰が?となると中岡慎太郎の存在が浮かび上がり、この2つの疑問点も解消されるのです。
中岡慎太郎は犯人なのか?
中岡であれば当然近江屋への出入りは自由にできます。さらには中岡が龍馬を殺害したとすると、土佐藩内部の内ゲバということになり、そのことを隠したい土佐藩が真犯人を公にしなかったのではないかと考えられます。
土佐藩はこの事件についての状況検分をしておらず、調書もないという話もあります。
事件直後に駆けつけた土佐藩士六名は、事件後この件について口を堅く閉ざしほとんど何も語っていないません。このことから土佐藩にはこの暗殺事件について公にしたくない何かがあったと伺えます。
しかし、龍馬と共に倒幕を目指していた中岡慎太郎が、龍馬を殺害することがあり得るのでしょうか?
実は龍馬と中岡は同じ倒幕を目指しながら、その方法については異なる思想を持っていました。
当時の土佐藩は、大政奉還によって徳川家を存続させる形で政権交代を果たそうとする「無血革命派」と、薩長と共に武力討幕を果たそうとする「武力革命派」に分かれていました。
土佐藩の後藤象二郎と大政奉還を推し進めた龍馬は前者に、薩長と繋がりの深かった中岡は後者に属していました。
武力革命の大義名分である「倒幕の密勅」が薩摩藩に下り、薩長が武力倒幕の準備を進める中で、薩長とともに土佐も武力討幕に決起するように中岡が龍馬を説得することは想像に難くありません。しかし龍馬はこれを頑なに拒否。
逆上した中岡は龍馬を斬りつけた、あるいは薩長や土佐藩の「武力革命派」から龍馬が武力討幕に応じない場合は斬り捨てるようにあらかじめ言われていたのかもしれません。
この際中岡は龍馬からの反撃によって負傷し、後日死亡したのでしょう。もしくは盟友を斬ったけじめとして自決したとも考えられます。
最後に
龍馬暗殺について、現場の近江屋が土佐藩邸の近隣にあったこと、土佐藩が事件の捜査に消極的、龍馬と中岡慎太郎が異なる思想の派閥に属していた点を踏まえ、龍馬暗殺の真犯人は中岡であるという説を解説してきました。
龍馬暗殺については犯人を特定する決定的な証拠がないため、陰謀論なども含めて様々な説が存在します。
中岡慎太郎犯人説は状況証拠からの推論に過ぎませんが、分かっている情報から色々な想像を巡らせることができるのが歴史の面白さと言えます。
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