東條内閣総辞職・・・それは太平洋戦争のもう一つの転換点。
東条英樹内閣総辞職
総理大臣、陸軍大臣、参謀総長を兼務して国務と統帥を掌握し、強権をもって反対勢力を弾圧しながら、聖戦完遂に拘って講和終戦については一顧だにせず。
果ては本土決戦に突き進んでいた東条英樹内閣も、絶対国防圏マリアナ諸島のサイパン島陥落などの危機的戦況に対する各方面からの強い批判に晒され、昭和19年7月、ついに総辞職に至った。
小磯国昭陸軍大将の次期首相就任は、陸軍内部で対立する統制・皇道両派間の妥協と、東条の影響力温存工作の結果で、小磯首相の力不足は否めなかった。
そしてその対応の拙さから、最大勢力の陸軍、また重臣や東郷外相らの協力が得られず、この内閣は不安定なものとなった。
そんな中、海軍大臣に就任した米内光政海軍大将は、次官や軍令部総長に和平派の人間を起用し、その他の要職からも抗戦派を遠ざける人事を断行した。
それは和平への布石であった。
戦局はフィリピン、硫黄島陥落、さらに沖縄戦開始と最悪化。
昭和20年4月、小磯内閣も総辞職した。
次の鈴木貫太郎内閣において、国全体が激しく軋み音を上げながら日本は終戦へと大きく方向転換する。
東条首相失脚なかりせば
米軍は沖縄攻略後の日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)を準備していた。
- 1945.7~8 オリンピック作戦前哨戦 上陸地点南九州各都市への爆撃艦砲射撃
- 1945.11 オリンピック計画 (九州上陸) 157万人
- 1946. 3 コロネット計画 (関東上陸) 152万人
これを予想した日本軍も本土決戦(決号作戦)を発令し、150万人という相当無理のある根こそぎ動員を始めていた。
沖縄戦の場合、日米兵力は日本軍約10万人、米軍45~55万人。
3/26米軍上陸開始、6/23牛島満防衛軍司令官自決、そして部分的抵抗の掃討完了9/7と、沖縄完全占領に5ヶ月余りを要した。
もし東条首相失脚がなく本土決戦が行なわれていれば、沖縄戦の何倍にもなる規模の戦闘が続き、終戦は何年も遅れたに違いない。
そうなれば、8/18から千島列島沿いに南下したソ連軍が北海道を占領し、日本民主主義人民共和国建国により日本は南北分断された可能性は決して低くない。
さらには沖縄戦の惨状を顧みれば、日本は復興不可能な壊滅的ダメージを被ったかもしれない。
そう考える時、東条英樹内閣総辞職は太平洋戦争の一大転換点だったといっても過言ではない。


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