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本能寺の変の「何故」を改めて考察

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歴史上のミステリーとしてはあまりにも有名でだいぶ擦られてきた話ではありますが、まだライト歴史好きの方もいらっしゃるとは思いますので改めて「本能寺の変」のミステリー部分について考察してみます。

「本能寺の変」に関しては、数々の歴史学者や作家がその謎を追求しているのですが、未だに解明されていません。いや、そもそも事実を知っているのは明智光秀本人だけなのかもしれません。

目次

光秀の立場と性格

「本能寺の変」という言葉は聞いたことがあっても、何が「謎」なの?という人もいるかもしれませんが、なぜ明智光秀が謀反を起こさなければならなかったのかが「謎」なのです。

彼は当時、信長の配下の中で「羽柴(豊臣)秀吉」と並んでツートップのフォワードとも言えるポジションにいたのです。「株式会社織田信長」というところは色々難しいこともありで問題は多々あったにせよ、一応、今で言う「専務取締役」クラスのポジションだったのですよ。それなのに何故?

それから、本能寺の変は「信長を討つ」ということに関してはかなり勝算のある行動だったかもしれませんが、その後のことに関しては余りにも計画性の少ない杜撰なところが多いのです(秀吉の「中国大返し」が驚異的に早かった、信長の遺骸を手に入れることができなかったということもあるでしょうが)。彼ほど頭脳明晰で優秀な人物がそんなことも考えず短絡的とも言える行動をとったのは、何故?

一時期あまりにも不思議という思いから”筆跡鑑定学入門”なる書籍を読んで明智光秀が残している書状を調べてみることにしたほどです。
結果としては素人目の考察なので話半分程度の価値ですが光秀の性格は繊細、緻密、神経質、などの傾向が見られました。
故に普通に考えれば謀反の後に誰が自分側につくか、敵対しそうな勢力にどう対するかなどまで緻密に考えていたはずです。

様々な説と光秀◯◯説

家康への接待での失敗を咎められたり、人質となっていた母を信長に見捨てられたりしたことからに拠る「怨恨説」これが一般的には一番有力な説と言われています。

他には多々ある黒幕説。「家康黒幕説」「秀吉黒幕説」「朝廷黒幕説」「足利義昭黒幕説」・・・etcなど。

色々調べているうちに、僕自身は最終的に「怨恨説」路線が一番濃いかな、というところに落ち着きつつあるのですが「家康黒幕説」というのも非常に捨てがたい面白い事実がたくさんあるのですよ。

例えば、徳川家康から3代将軍家光まで仕えた僧侶「南光坊天海」この人が実は光秀だった!という説があるのです。
家康が黒幕となって光秀に「本能寺の変」で信長を討たせ、その後光秀は死んだと見せかけて実は参謀として迎えたのではないか…なんて感じですね。

この「天海」君ですが、彼は臨済宗の僧侶「金地院崇伝」と並んで「黒衣の宰相」と呼ばれ、徳川幕府成立初期時には莫大な影響力を持った大した人なのです。が、しかし、この天海君、イマイチ出自が不明な人物なのです。彼が歴史上に登場するのは1590年ぐらい。豊臣秀吉の小田原攻めの際、家康の幕臣として参陣しているあたりから記録として残っているようです。

本能寺の変

・・・本能寺の変から約8年後。

そんな正体不明とも言える坊さんが何故「黒衣の宰相」と呼ばれるほどの権力を持てたのか…。それに、この人物は「坊さん」にも関わらず着用していた鎧が残っているんですよ。普通、坊さんは鎧なんて必要としません(当時は「僧兵」という人たちもいましたが)。尚且つ、この鎧には明智家と同じ「桔梗の紋」が彫られているのです。
また、日光東照宮の近くに「明智平」と呼ばれる地名があるのですが、この地名を付けたのは天海君だと言われています。
2代将軍「秀忠」3代将軍「家光」の(秀)と(光)は「光秀」からとったのでは?なんて説もあります。

天海君からは明智の臭いがプンプンします。

ただし、明智光秀の出生年月日享録元年から天海の没した寛永20年までを計算すると、天海の没年齢は約118歳ということになるので、この「明智光秀=南光坊天海」説にはちょっと無理があるみたいです。

その結果は!!

陰謀説にロマンを感じる僕としては上記の説が無理がある、というのは残念なところなのですが、何とTBSのTV番組「世界・ふしぎ発見!」で今から20年以上前になりますがこの説の検証をおこなったのです!
検証というのは、明智光秀の直筆書と南光坊天海の直筆書を比較する筆跡鑑定。もう、固唾を飲んで結果を見守ってしまいましたよ。

しかしてその結果は・・・!!
残念ながら別人という結果が出てしまいました~。
が、しかし、夢と浪漫は僕を見捨てなかったのです。天海の筆跡は光秀のものではないものの、近親者である可能性が非常に高い!というのです。そこで登場するのが光秀の従兄弟であり娘婿であり重臣であった「明智秀満」君です。彼は本能寺の変、秀吉との山崎の合戦の後に坂本城で自害したとの説がありますが、実際のところ生死は不明だったようで年齢から考えても「天海=明智秀満」説は「本能寺の変家康黒幕説」とは別としても非常に有力なようです。

また、3代将軍家光の乳母として有名な「春日局」。この彼女、実は明智光秀の重臣「斎藤利三」の娘なのです。斎藤利三は本能寺の変の後、秀吉に捕らえられ処刑されているのですが、その娘のお福(=春日局)は小早川秀秋の家臣に嫁ぐなど紆余曲折を経て大奥・春日局へ至るのです。

何故謀反人である明智光秀の関係者がこうも徳川幕府で重用されているのか、と考えると、「家康黒幕説」も捨てきれなくなってくるですよ。

誰か本能寺の変の真実を知っている方がいましたら、出来る限りの謝礼を用意しますので教えてください。若しくは早いところタイムマシンを発明してください。明智君に本当のところを聞いてみます。

※画像はイメージです。

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