学術探検部の学生だった名倉祐樹さんが、日咩坂鍾乳穴の最奥にある地底湖で調査途中に行方不明となりました。
未だに行方が分からず、不可解な事が多い、この事件を簡素に解説していきます。
事件の発端
当時高知大学3年生の名倉祐樹さんは、サークル活動で学術探検部に所属し、岡山県新見市豊永赤馬にある日咩坂鍾乳穴を探検するために出発しました。
日咩坂鍾乳穴は、岡山県の指定天然記念物であり、全長1600メートルに及ぶ洞窟です。
この洞窟は神聖な場所として尊ばれ、「日咩坂鍾乳穴神社」の御神体としての存在でもあります。
日咩坂鍾乳穴は昭和32年に岡山県指定天然記念物に認定されました。
入洞するには教育委員会への届け出が義務付けられており、学術探検部のメンバーは事前に届け出をしていなかったため、無許可で洞窟に入ってしまったことが後に問題視されています。
無謀な探検
2008年1月5日午前11時30分頃、参加していた13名のうち、メンバー4名と他1名が加わった合計5名が洞窟内へ侵入します。
入口から「神の池」までは平坦ですが、神の池を境にその先が非常に危険な場所となっているのです。
神の池は冬になると水がほとんどなくなり、池の奥に人がやっと通り抜けられるれるくらいの穴が現れます。この穴を通り抜けて900m進むと、事件現場となった地底湖が現れます。
午後2時30分に地底湖に到達したと言われております。
地底湖は、湖岸から水面までの高さが5メートル、奥行きが20メートル、水深が30メートルにも及ぶ深い湖です。
5名のメンバーのうち、名倉祐樹さんのみ地底湖を横断しようと水の中に入っていったそうです。
捜索活動とその後
午後6時過ぎ、新見署に名倉さんが行方不明になったと通報が入ります。
彼を探すために捜索隊が動員されましたが、プロでも洞穴の入り口から地底湖までは3時間以上かかります。
そこに、人が這いつくばってしか通れないほどの細い道などのポイントがいくつもあり、酸素ボンベを地底湖まで運ぶことはできませんでした。
ビニールボートを運び入れての水面からの捜索や、碇を湖底に下ろして沈んでいないかを試みますが、残念ながら見つけることは出来ません。
延べ200人を動員して捜索を行いましたが、名倉祐樹さんを発見することはできず、2008年1月10日を以て捜索打ち切りとなりました。
この事件は、名倉さんの家族や大学、さらには地域社会に大きな衝撃を与えました。名倉さんがどのようにして行方不明になったのか、そして地底湖で何が起こったのかは未だに謎のままです。捜索の終了後も、事件に対する疑問や不信感は解消されていません。
事件の後、事前に届け出をしていなかったことや、安全対策が不十分だったこと。
学術探検部というサークル活動自体は、「科学的な探求を目的としたものであり、危険を伴うものではない」とされていましたが安全管理に対して強く批判され、高知大学をはじめとする各大学で、探検活動における安全対策を強化する動きが見られました。
疑問点
一見、軽率な大学生が起こした単なる事故と、だれしもが思うでしょうが、いくつもの疑問点があります。
まずは、名倉祐樹さんはなぜ一人だけで地底湖に入ったか、それに彼の姿は誰も確認していないというのがなんとも不自然です。湖がある空間はそれほど広くはなく、彼が溺れたり、なにか異変があったとして誰かが気づくはず。
装備の面でも、おそらく難所を越えるために最低限の装備で挑んだとして、地底湖の調査を行う想定があったのであれば、あまりにも不自然。ライフジャケットはともかくとして、命綱すら装着していなかったというのです。
サークル自体、学術探検部という名前だけで探検ごっこをするオチャラケた存在だとしても、なにか意図があっての事だったように思えてしまいます。
私が思うのは、学術探検部というと男性だけではなく、女性も多かった事ので恋愛関係の縺れから、メンバー全員が共謀して殺害し、遺体を地底湖に沈めたと邪推してしまいます。
実際にさまざまな仮説が存在しますが確たる証拠はなく、謎は今も地底湖の底深くという訳です。

※画像はイメージです。
思った事を何でも!ネガティブOK!