日本の長い歴史の中においても幕末期の京を主な活動の場として、その後徐々に衰退し崩壊して行く江戸幕府を、自ら白刃を振るう事で守り抜こうとした剣客集団・新選組の知名度と人気は群を抜いているように思える。
ここ近年の歴史教科書においては、永らく明治維新の影の立役者として取り上げられてきた土佐の坂本龍馬が、実際に薩長同盟の締結やその後の倒幕にどの程度まで関与したのかが疑問視され、記述が消えるとも言われている。
坂本龍馬は一応、これまでの解釈からすれば倒幕の礎を築いた重要人物の一人と言う扱いだった為、江戸幕府に替わり明治新政府の正当性を示す上で、時の政権から見ても割と好都合な存在ではあったように思う。
それに引き換え新選組は江戸幕府側の末端に連なる組織として、明治新政府側から見れば明確な賊軍の一部であり、不利な状況下でも江戸幕府に最後まで忠誠を尽くした剣客集団という印象は、所謂判官びいきの以後の創作物の影響故だろう。
そんな新選組を代表する隊士といえば、局長の近藤勇、副長の土方歳三、そしてその実働部隊である、一番隊隊長を務めた沖田総司、同二番隊隊長の永倉新八らの知名度が群を抜いていると思われる。
その中では各々が撮影された時代は少しづつ異なるとは言え、近藤勇や土方歳三、永倉新八の3名は実際の写真が残されている為、漫画等の創作物の中でもそれらに似せた容貌で描かれている事が多いようだ。
しかし沖田総司に関しては確実に本人と断定できる写真がこれまでに発見されておらず、その容貌は創作物で形成されたイメージが多分に強いが、作品によって近年は少しづつ変化しているように感じられる。
沖田総司の略歴
沖田総司の生年については2つの説があり、1842年若しくは1844年と考えられているが、何れにせよ陸奥国を収めていた白河藩の藩士・沖田勝次郎の子として同藩の江戸屋敷にて生を受けたと見做されている。
父である沖田勝次郎は1845年に世を去り、その時点は沖田総司は3歳若しくは1歳ほどであった為、沖田家の家督は実姉のみつが迎えた婿養子の林太郎が継ぎ、沖田家は白河藩士の家柄を継続したとされている。
沖田総司は1850年に満9歳若しくは7歳にして、近藤周助(近藤勇の養父)が営む現・新宿区の市谷柳町の天然理心流剣術道場の試衛館の門弟となり、近藤勇や土方歳三らと知己を得、剣術の研鑽に励んだ。
しかし1859年に林太郎が白河藩を脱藩した為、沖田家は白川藩士の肩書を喪失、沖田総司自身も旧藩士の子という身分となり、元々士分の出自ではなかった近藤勇や土方歳三らと同様に、士分へ登用を志したと目される。
因みに生年は近藤勇が1834年、土方歳三が1835年であるため、沖田総司は前者より8~10歳下、後者より7~9歳下ではあるが、1863年に自身が19~21歳の頃には天然理心流の免許皆伝を受け、試衛館の師範代・塾頭を務めたと言われている。
永倉新八(生年は1839年で沖田総司より3~5歳年長)も同じく日に試衛館に身を寄せたが、沖田の剣の技量は近藤勇や土方歳三を凌ぐ程との評価を残しており、竹刀を用いた稽古なら大半を子供扱い出来たと述べている。
沖田家代々の墓碑には、沖田総司は天然理心流以外にも北辰一刀流の免許皆伝も受けていたとも記されているが、彼の最も得意とした技は「突き」と伝えられ、一度の踏み込みの間に3度もの「突き」を繰り出したと言う。
沖田総司自身は前述したように試衛館の師範代を務める程の剣技を会得し、近藤周助の養子となり跡目を引き継いだ近藤勇や、土方歳三より実力では上だったと考えられるが、年長の彼らを慕い敬っていた事が偲ばれる。
新選組隊士としての沖田総司
1863年2月に庄内藩の清河八郎が江戸幕府に献策した浪士組の結成が行われると、沖田総司は近藤勇、土方歳三、永倉新八ら試衛館のメンバーと共にこれに参加、時の第14代将軍・徳川家茂の警護を担う目的で京へ上る。
しかし京に上った浪士組の凡そ200名の面々に対し、首謀者の清河八郎は同隊の結成目的とした徳川家茂の警護は実は口実で、江戸幕府の方針に抗い、朝廷に味方する尊王攘夷活動を行うと明かした。
このため近藤勇以下、沖田総司を含む試衛館メンバーらは浪士隊を離脱し京に残る。そして同じく京に残った水戸藩出身の芹沢鴨らと共に1863年3月に壬生浪士組を新たに結成、これが同年8月に新選組へと発展する。
当初の新選組は芹沢鴨を筆頭局長という代表に据えた組織であったが、結成翌月の1863年9月には芹沢鴨ら水戸藩出身者を暗殺による粛清で排除し、名実ともに近藤勇のみをトップの局長に置く組織体制に移行した。
芹沢鴨の暗殺に際しては、近藤一派の中でも剣技に秀でた沖田総司も土方歳三らと共に実行部隊の一員として白刃を振るったとされ、近藤勇を頂点とする新体制の構築に大きな貢献を果たしたと見做されている。
新選組隊士としての沖田総司は一番隊組長を務めた事で知られているが、一隊は凡そ10名前後の隊士で構成され、総数で一番隊から十番隊迄の十隊があり、二番隊組長を永倉新八、三番隊組長を斎藤一が務めている。
その中で最も若い万番号の一番隊を率いた事からも、沖田総司が如何に新選組内で重用されていたのかは、敢えて語る必要もない程、その事実を明白に示していると言えるのではないだろうか。
新選組を世に知らしめた池田屋事件
1863年8月に壬生浪士組から新選組という名称に改めた事は前述したが、その名が一躍当時の世に遍く知られるようになったのは、その翌年1864年6月に生起した京の三条木屋町の旅籠である池田屋に彼らが斬り込んだ事績からである。
このとき新選組は長州藩士らを中心とする尊王攘夷派の志士たちが謀議の為、どこかに参集していると読んで近藤勇と土方歳三が率いる2隊に分かれ、京の三条から四条にある旅籠を虱潰しに探索する行動に出た。
すると近藤隊が三条木屋町の旅籠・池田屋で謀議を実施中の尊王攘夷派志士らを発見、20名を超すそれらの宴席の場に近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で踏み込み、斬り合いに及んだ。
近藤勇や沖田総司らはたった4名とは言え、奇襲であり全員がかなりの剣客だった事もあり5倍以上の人数を相手に善戦したが、藤堂平助が頭部を負傷、沖田総司が吐血して倒れ、一時は近藤勇と永倉新八のみとなったとされる。
しかしそこに土方歳三の隊が駆けつけて加勢に加わった為、形勢は逆転、最終的に20数名の尊王攘夷派の志士らは9名が死亡、4名が捕えられ、新選組の名を世に知らしめる大きな意味を持つ出来事となった。
このとき沖田総司が吐血して戦闘不能となったとする展開は、様々な創作物で描写されて今の世にも伝わっているが、後の沖田総司の死因である労咳(今の肺結核)をこの時から抱えていたと示唆する描かれ方が多い。
しかし沖田総司の死亡はこの池田屋事件からは凡そ4年後の1868年5月である為、労咳(今の肺結核)によって吐血にまで至るのはかなり末期的症状であり、そのような場合は長くとも1年以内に死亡すると目される為、今はフィクションと見る向きが多い。
このあたり有名な洋装の写真が残されており、現在でも普通に美形である事が確認できる土方歳三とは大きく異なり、沖田総司の場合はかなり創作物の影響で容貌の印象も良い方に補正が行われてきたと思われる。
沖田総司の人物像
結局のところ、沖田総司は1868年5月に肺結核で死亡した為、生年からすれば24歳から26歳くらいの比較的に若いうちに世を去っており、新選組隊士としての実稼働も長くても1867年一杯と見られ、4年程の短い期間であった。
1868年1月に生起した、新政府軍と旧幕府軍との戊辰戦争の最初の戦闘である鳥羽・伏見の戦いにも、沖田総司は参加はしたが病状の悪化で機能しなかったと言う意見と、既に病の身で未参加だったとする意見の2つが存在する。
沖田総司のこの若くして労咳(今の肺結核)に体を蝕まれ早逝したと言う事実が、その後の創作物等においては剣技には秀でていながら、長身・痩躯で容貌も美形という人物像の構成にも大きな影響を与えたと思われる。
そうした沖田総司の薄幸なイメージは、性格についても他の新選組隊士に多い、花街での遊びに興じる無頼漢とは異なる清廉さを演出しているが、実際には花街に繰り出す事もあったようだ。
創作物の中では沖田総司は京の町娘との悲恋のエピソードが語られる事も多いが、その容貌についても本人のものと断定できる写真は残されておらず、容貌も愛嬌はあるが美形とは言い難かったという説が有力視されてきている。
創作物における沖田総司の描かれ方の変化
これまで見てきたように実際の沖田総司は、早逝した薄幸の美形の剣士であると言うイメージは薄れつつあるが、これはメジャーな漫画作品の描写の中でもその変遷が顕著だと個人的には強く感じている。
一例として1986年から1996年までの10年間にわたり連載された、武田鉄矢氏原作、小山ゆう氏作画の「おーい竜馬」での沖田総司は、それまでのステレオタイプな早逝した薄幸の美形の剣士として描かれていたように思う。
これが実写ドラマ化もされた人気作、2000年から2010まで連載された村上もとか氏の「JIN-仁」においては、沖田総司の容貌は1929年に書かれた当人の姉のみつの孫、つまり甥をモデルにしたのっぺりした印象に似せて描写されている感がある。
これら両作品における沖田総司は何れも脇役ではあるが、今後も沖田総司自身を主体的な役とする作品においては、現代のルッキズムを反映して、読者の関心を引き人気を得る為には美形の設定が行われる可能性は高いのだろう。
featured image:https://bakumatsu.org/events/view/410,Public domain, via Wikimedia Commons


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