オカルトは、科学と経験の間を埋めるためのものである。
科学が説明途上のものを、オカルトという箱に放り込んでおく事で、人は心の安定を得る。
ルイ・パスツールは、細菌の自然発生説を否定したが、その根拠となったのは
「生命は神が作りたもうたものなのだから、人間如きに作れる筈がない」
というオカルトである。
その後、科学が追いかけて彼の正しさを証明したのである。
さて、そんな科学とオカルトの狭間にあるものが、確率だろう。
サイコロは乱数を発生させない
確率は、自然発生的な発想だが、本格的な議論が始まったのはヨーロッパのルネサンス期、賭博の払い戻し割合の計算の為とされる。
胴元が振る6面サイコロの出目を当てる賭博を考えた時、「どの出目も、1/6の確率で出る」、「掛け金の6倍を払い戻す」とすると、確率的には胴元も、客も儲からない。
胴元は、ここに「胴元が必ず勝つ目」を設定したり、払い戻し倍率を下げたりして、儲けを出していく事になる。
博徒は当たったり外れたりしているようで、トータルで見れば胴元が設定した確率に合わせて損をする。
さて、このサイコロは実は確率の喩えには不適切である。
サイコロは、公正な乱数発生装置のような顔をしているが、別にそういう事はない。
筋肉の動きや重力の加減、空気の動きなど、全ての条件を揃えて振れば、必ず同じ目を出す。
これがばらけるのは、「全ての条件を揃え」られないからだ。
コンピュータの物理演算で実験すると、簡単なパラメータなら理論通り同じ目が出続ける。
ここにバウンドなど、複雑な計算を挟むと、ブレが生じていく。
だがこれは、「複雑な計算を、マルチコアのCPUで計算する」という、物理エンジン側の問題だ。
シミュレートに使われた物理エンジンが、一本道ではなかったために起きた事だ。
理論上は、サイコロは常に同じ場所に同じ目を出して落ちる。
未知なる係数「ギャンブルの悪魔」
一方、量子力学の世界では、確率で決まっているような、定まらない結果が出る事がある。
これも、乱数が存在するというより、「現時点の科学では気付かない他の要素(係数)が存在する」と考えるべきだろう。
それを調べ尽くした上で、やはり「確率」でしか決まらない現象があったとしても、それは調べが足りないのか、本当に「確率」でしか決まらないのか分からない。
こういった色々を考え、結論を出すのは面白くはあるが複雑怪奇で、時に面倒なものだ。
この「よく分からん」ものを、「神」や「ツキ」「ギャンブルの悪魔」といったオカルトの皮を被せる事で、人は心を落ち着けられる。不可解な確率の偏りも「どうやら神様のご機嫌を損ねたようだ」と考えられるし、負けがこんだ後は「そろそろ当ててくれるだろう」と、感情があるものかのように期待する。良い確率を願い、東郷神社に参拝する事もあろう。
本当に「神」がいても、未発見の「係数」があったとしても、サイコロの出目は変わらない。
オカルト箱にお片付け
神はサイコロを振らない、といったのはアルバート・アインシュタインだが、彼もこの「ギャンブルの悪魔」の皮を完全に引き剥がす事は出来なかった。
案外、知性を持った存在として、割とカジュアルに「ギャンブルの悪魔」がいるのかも知れない。
凡夫たる我らは、そう思うぐらいが丁度良い。
そういう人達のために、オカルトはある。だが、あくまで「仮」である事は忘れてはならない。まして、解析が完了した「神」に、別の皮を張り付けたハリボテを持ち出すような輩とは、距離を取るべきだ。
どこからが最新科学で分かっていて、どこをオカルトが埋めているか、その境界線は、よく知っておくべきだろう。
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