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過酷な幕末から明治を生き抜いた新選組隊士「斎藤一」

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日本の歴史好きの中でもとりわけ人気が高い時代と言えば、やはり全国に群雄割拠した戦国武将たちが覇を競った戦国時代だと思われるが、人によっては幕末の動乱期を一番に上げる方も少なくないだろう。
幕末期と言えば、江戸幕府が薩長を中心とする新政府側によって最終的には武力で打倒され、武士の時代から近代国家に日本が変貌を遂げた事で、その過程で様々な戦いが繰り広げられた点に多くのドラマが存在している。

その中でも幕末期の治安維持の為、当時の京を跋扈した討幕派の鎮圧で名を挙げた新選組は、以後のフィクション作品の影響もありつつ、悲劇的なその最期も相まって今も高い注目が注がれているように思える。

新選組と言えば、投降した後に処刑された近藤勇や、函館戦争まで戦い抜いて最期を迎えた土方歳三は言うまでもないが、個の剣術の上では斎藤一も最強隊士の一人としてその名が上がるケースも多い。
幕末を生き抜いた新選組隊士と言えば、永倉新八や斎藤一などほんの一握りに過ぎないが、今回はそんな斎藤一について、及ばずながら紹介をして見たいと思う。

目次

斎藤一の生い立ち

斎藤一は1844年に播磨の国の明石藩の元足軽であったと伝えられている山口右助の次男として、山口一という名で江戸で生を受けたとされており、1862年まで江戸で暮らしていたと考えられている。
しかし山口一は1862年、江戸幕府の旗本を務めていた侍を口論の末に惨殺してしまい、江戸から逃れて父・山口右助の伝手で京の剣術道場に身を寄せ、斎藤一を名乗り、その吉田道場では師範代を任されたと言う。

斎藤一は江戸に在住していた時期から試衛館を営む近藤勇と知己を得ていたと言われ、京に逃れた翌年の1863年にその近藤勇らが同地の治安維持を目的に壬生浪士組を創設した為、これに加わっった。
壬生浪士組は元々は庄内藩の下級武士であった清河八郎が、江戸幕府の第14代将軍である徳川家茂の上洛に伴い、その警護を目的に浪人を集める策を唱え、それが採用され浪士組として京に上ったものだ。
しかし清河八郎は浪士組として京に入ると、実はそれを尊王攘夷の先兵とするという、江戸幕府側とは真逆の組織にする構想を打ち出した為、大半は江戸へと帰還したが、近藤勇らは将軍警護の為、京への残留を図った。

こうして京に残った近藤勇らが壬生浪士組となり、当時京都守護職を務めていた会津藩の松平容保の配下となった事で新選組の名を与えられ、斎藤一は若干20歳にしてその副長助勤に据えられた事からも、剣術の腕前が窺える。
斎藤一は新選組での地位を副長助勤からスタートさせたが、その後も四番隊組長を経て三番隊組長となり、この時の一番隊組長は沖田総司、二番隊組長は永倉新八と同隊を代表する剣客が務めていた。

剣客としての斎藤一の評

前述した新選組内の地位で、一番隊組長を沖田総司、二番隊組長を永倉新八、そして三番隊組長を斎藤一が務めたとされるのは、1865年に行われた組織改編以後だが、この3人は隊の撃剣師範も兼ねていた。

撃剣師範とは新選組の隊員らに剣術の指導を行う担当者の事で、如何に剣客としての斎藤一の実力が同隊の中でも評価されていたのかを雄弁に物語るものだろう。そんな中で斎藤一は一時期新選組を離れた事がある。

それは1867年3月の事で、新選組の参謀で且つ文学師範を務めていた伊東甲子太郎が同隊を抜け、新たに御陵衛士と言う孝明天皇の御陵の守護を目的とする新組織を設立、それに斎藤一も加わった為だ。
しかしこの時斎藤一が御陵衛士に加わった目的は、通説では新選組局長の近藤勇の密命を受けて伊東甲子太郎らの動きを監視する為のものであったと伝えられており、その点からも近藤勇らの厚い信任を受けていた証とも受け取れる。
この時同じく新選組から御陵衛士に移った阿部十郎と言う人物は、新選組内における剣の腕前を永倉新八、沖田総司、斎藤一の順だと評しており、その永倉新八自身は沖田総司も斎藤一も達人だと述べている。

斎藤一は御陵衛士の一件では近藤勇らの密命を受けて内偵を行ったと記述したが、逆に新選組内では長州藩から間者として送り込まれていた御倉伊勢武と荒木田左馬之亮、同様に薩摩藩からの武田観柳斎をそれと見抜き、切り伏せたとも言われている。

新選組隊士としての斎藤一

前述した新選組内での粛清を斎藤一が実施したか否かは史実としては定かではないものの、1864年6月に発生した池田屋事件では斎藤一は土方歳三らと共に、先に突入していた近藤勇らを救う働きを見せ、江戸幕府と会津藩から合計17両の恩賞金を拝領している。
また御陵衛士の一件では斎藤一がもたらしたであろう情報を元に、伊東甲子太郎らが近藤勇の暗殺を画策していると新選組は判断し、1867年11月に酒宴におびき出し暗殺する油小路事件が実行された。

この御陵衛士の件の後、斎藤一は新選組に復帰するが、時代はこの事件の1ケ月前の1867年10月に江戸幕府の第15代将軍であった徳川慶喜が政権を朝廷に返還する大政奉還を迎えており、戊辰戦争へと進む。
斎藤一は新選組の隊士として翌1986年1月の鳥羽・伏見の戦いに参戦したが、彼らの属した江戸幕府軍は敗北、同年3月には甲州勝沼の戦いにも敗れ、近藤勇は千葉の流山で偽名で投降するも正体が露見して処刑された。

新選組副長の土方歳三も同年4月の宇都宮城の戦いにて負傷を負い隊を離れたが、斎藤一は残りの隊士と共に会津まで逃れて、同藩の元で白河口の戦い、母成峠の戦いに参加、最終的には降伏し新政府軍の捕虜となった。

戊辰戦争後の斎藤一

戊辰戦争に敗れた会津藩は一旦は改易処分を受けたが、翌1869年11月には青森の下北半島で斗南藩として再興を許された為、斎藤一もその藩士として同藩内の五戸に居を移し、藤田五郎を名乗ったとされる。
その後斎藤一は5年後の1874年7月に上京、警視庁の警察官に採用され、3年後の1877年2月には警部補を拝命し、同年5月には西南戦争に参戦、今度は新政府側の一員として反乱を鎮圧する側となった。

斎藤一は西南戦争では負傷を負うも新聞で報道される程の活躍を見せ、戦後の1879年10月に国から勲七等青色桐葉章と賞金100円を与えられた事からも、その働きが確かなものであった事が窺える。
警察組織自体の改組はあったものの、斎藤一は1892年12月まで警察官として勤め、その職を辞した後は同年4月から東京高等師範学校附属東京教育博物館の看守となり、1898年までそこで撃剣師範となった。

斎藤一は1899年に東京高等師範学校附属東京教育博物館を退職した後には、東京女子高等師範学校に1909年まで務めて退職、その6年後の1915年9月に胃潰瘍によって72年の生涯を終えている。

新選組隊士としては長命だったが自らを語る事はなかった男

前述したように斎藤一は激動の幕末期を新選組隊士として生き、戊辰戦争をも戦い抜いて明治の世では警察官としても西南戦争に従軍、警部補まで務めるなどして72年の天寿を全うした人物だった。
奇しくも斎藤一が死去した同年の1915年の1月、同じく新選組隊士として生き残っていた永倉新八も世を去っているが、こちらは晩年に「浪士文久報国記事」等の著作を残し、新選組時代の活動を後世に伝えている。

それらの永倉新八が残した著作物等によって、令和の現代にも新選組の活動は伝えられているが、斎藤一はそのような記録は行っておらず、その人物像も偲べない故か、フィクション等での登場も少ない感は否めない。

明治時代には警察官としてかつては敵であった新政府の組織の一員として奉職し、西南戦争では報奨も受けた実績から察するに、個人的には斎藤一にはイデオロギー上の思想は薄く、置かれた立場を全うした人物のように思える。

featured image:日本語: 中黒實English: Minoru Nakakuro, Public domain, via Wikimedia Commons

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