愛知県丹羽郡大口町にある墓地、ふと目に入り気になりました。その墓地には寺や神社がないので、不気味に思い歴史的な話を基に仮説を立てようと思います。
大口町の歴史
大口町の歴史として、戦国時代にさかのぼります。大口町には昔、織田信長で有名な織田氏の領地で小口城というものが1459年(長録3年)に築城されたとされており、別名『箭筈城(やはずじょう)』と名付けられてます。
1558年~1569年の間に織田信長の軍勢によって攻められ、廃城となったとされてます。一方で一時的とはいえ1548年(天正12年)小牧・長久手の戦いには豊臣秀吉の前線基地として再興したという事実もあります。
寺も神社もない墓地
では、神社も寺もない墓地について語りたいと思います。墓地には普通に石工されたお墓が多くありますが、墓地の端っこの方には、粗末な木の墓地(名称は忘れましたが)があり、さらにもっと荒廃した墓がありました。
なんかこんな荒廃した墓って罰当たりな気がして怖く感じます。その墓地には何かしら意味があるのでは?と思い考えてみまして、ある仮設を立てました。
その墓地について
戦国時代の背景などを基に考慮し、考えた仮説ですがまず小口城の位置についてです。小口城の跡地は現在小学校が建てられてます。そして小学校ですが、墓地の位置から近いと考えると、当時はその墓地周辺は村ではないかと考えてます。そしてある仮設に行き着くのですが、その仮説は戦国時代からある墓地だったのではないかと思います。
仮説の理由
理由として、まず時代背景にある戦国時代の織田氏の領地で、小口城の役割というか立ち位置。小口城は木ノ下城や犬山城の支城であるのです。そうした背景からかなり下の城でもあり、戦国時代の背景から出兵もかなりされていたのではと思います。
戦の兵たちは戦に長けてるものばかりではないですし、元は村人で農家です。現に豊臣秀吉は農家の息子で村人から領主者に、さらには日本全国統一を果たした覇者に成り上がりを果たした人物です。
そういったことからあのお粗末なお墓は、戦で戦死した村人のお墓ではないかと考えられる仮説も浮上します。それ考えると落武者が出てきそうであの墓地には近づきたくないですね。
まとめ
以上のことから、あの墓地は戦国時代からある墓地でお粗末なお墓は戦で戦死した、農家の村人なのではと仮説立てました。そして無念で死んでいった戦死者の霊がさまよっていると思いますと、不気味ですし呪われそうで近づきたくないのが本音です。
小学校には小口城の跡地だったことあり学校七不思議あっても不思議ではなさそうなので興味は惹かれます。今度、小学校にピックアップ当てようかと思います。
※アイキャッチはイメージです。
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