幕末の京を舞台に江戸幕府の権威の元、その地の治安維持に名を馳せた剣客集団と言えば、日本人の大多数が新選組を思い浮かべ、その局長である近藤勇以下、副長だった土方歳三らの壮絶な最期を想像するのではないだろうか。
そんな新選組と言えば、局長である近藤勇の強力なリーダーシップの元で、当時の京を跋扈した討幕派の尊王攘夷を掲げる志士達と死闘を繰り広げた集団とのイメージが強いが、近年は特に人気が高まっている感が強い。
ただそうした傾向も時代の変遷と共に培われてきたとも思え、戦前は近藤勇、戦後は沖田総司、そして近年は土方歳三と、新選組隊士の中での一番人気も変わってきているようだ。
しかしそんな彼らが、結成当初の浪士隊から壬生浪士へ、そして新選組へと組織・名称の変更を経た中で、先ず初代のトップに君臨したのは、芹沢鴨と言う水戸藩出身の人物であった。
新選組の初代筆頭局長という代表者を務めた芹沢鴨ではあるが、正直近藤勇や土方歳三程の知名度も人気も得ていない理由は、彼らの正当性を示す上での引き立て役的な地位に後世の創作で置かれた事が大きいと思われる。
今回はそんな芹沢鴨について、粗暴にして粗野と言うようなイメージが如何にして定着しているのかを、及ばずながら紹介してみたいと思う。
資料的には本名すらも定かではない芹沢鴨
芹沢鴨と言う名からして彼の本名では無く、浪士隊の結成以後に自称したものと言われており、生年も不詳だが、現在の茨木県北茨城市中郷町の松井村の神官であった下村家に嗣次と言う名で生を受けたとされている。
下村家は水戸藩の藩士であった芹沢家の分家であったとも言われており、新選組一の剣の使い手と称された永倉新八も芹沢鴨を、水戸藩の郷士で真壁郡芹沢村の産であると書き記しているが、この正否も不明である。
また諸説あるものの、下村嗣次は神道無念流の戸賀崎熊太郎に師事し、免許皆伝を得てその師範代を務めたとも言われ、この事から芹沢鴨も当代の一門の武芸者であったと見る向きが多いようだ。
下村嗣次としての芹沢鴨は1860年前後に、現在の茨城県の行方市玉造に拠点を構えていた玉造勢と呼ばれた一団に加わり、当時日米修好通商条約に基づき開港された横浜での攘夷活動を進めようと動く。
そこで下村嗣次は玉造勢の一員として、水戸藩内や近隣の江戸幕府の天領において攘夷活動に必要な資金調達に従事、豪商を中心に暴力を伴う手法でその獲得に奔走したとされている。
こうした玉造勢の活動は、水戸藩や江戸幕府からの厳しい取り締まりの対象となり、1861年3月に下村嗣次も捕縛の上、1863年1月までの凡そ2年に渡り投獄された後、何とか出獄が許された。
下村嗣次がここで属していた尊王攘夷派の組織を玉造勢と紹介したが、この組織は後の天狗党の前身だったとも言われ、その為彼が参画してきたのも同党であると紹介している文章も多い。
さて出獄を機に下村嗣次は芹沢鴨へと名乗りを改めたと目されており、出獄の翌月の2月、庄内藩の清河八郎の献策により江戸幕府が将軍警護の為に組織した浪士組に、配下の新見錦らと共に加わった。
浪士組から壬生浪士、そして新選組へ
前述したように清河八郎の献策により江戸幕府が将軍警護の為に組織した浪士組に加わった芹沢鴨だったが、そこには近藤勇、土方歳三、沖田総司らの試衛館の出身者らも合流、1863年2月23日に京に入った。
しかし浪士組の結成を献策した清川八郎は、上洛を果たすや否や、その結成目的であった将軍警護と言う名目を翻し、同隊を朝廷傘下の倒幕組織とする事を明かし、攘夷の実行の為、江戸へ引き返す旨を告げた。
この清川八郎の動きに、芹沢鴨らの一派と近藤勇らの一派は賛同せずに京への残留を決めて別れ、翌3月10日に当時京都守護職を務めていた松平容保の会津藩に庇護を願い出て認められ、壬生浪士と呼ばれ始めた。
これは現在の京都府の京都市中京区壬生にあった郷士の八木邸を芹沢鴨らが拠点として寄宿した為につけられた名称だが、壬生浪士は直ぐに殿内義雄を粛清して芹沢鴨ら一派と近藤勇ら一派が実健を握った。
その後壬生浪士は組織としての体裁を整える為に、芹沢鴨、新見錦、近藤勇の3名を代表たる局長に据えたが、その中でも芹沢鴨はトップである筆頭局長に推され、浪士の中でもそれまでの実績が評価されていた事が窺える。
壬生浪士は1863年9月30日に発生した八月十八日の政変、朝廷内部における急進的な尊王攘夷派の公家とその後ろ盾であった長州藩を追放した一件に出動して以後、庇護元の会津藩から新選組と呼ばれるようになったとも伝えられている。
芹沢鴨の最期
こうして1863年8月頃より、浪士組、壬生浪士の名称を経て遂に今日的に良く知られている新選組へと至った訳だが、その筆頭局長に名を連ねていた芹沢鴨はその翌月の9月には、近藤勇らの一派によって粛清される。
芹沢鴨の近藤勇らの一派による粛清には伏線があり、芹沢鴨の配下で局長のひとりでもあった新見錦が、既にその数日程前に新選組の掟であった局中法度に反したとして、切腹と伝えられる処分を受けていた。
近藤勇らの一派は、新見錦が新選組局長という重責にありながら、その地位を利用して商家等からの金品の略奪や、それを遊興に費やしたとして局中法度に違反する行為だと激しく糾弾、粛清したとされる。
この流れで近藤勇らの一派は芹沢鴨を含めた新選組全体が参加する宴席を設け、泥酔して屯所である八木邸に戻り、愛人と床に就いていた芹沢鴨を土方歳三らが襲撃して斬殺、公的には長州藩の志士の犯行と喧伝された。
近藤勇らの一派が実行したこの芹沢鴨の粛清は、一説には芹沢鴨の悪行に業を煮やした朝廷側が会津藩に指示したものとも言われているが、近藤勇らの一派にとっては新選組を完全に掌握する好機となったと思える。
永倉新八による後年の著書の「浪士文久報国記事」では、芹沢鴨の暗殺を担ったのは土方歳三、沖田総司、藤堂平助、御倉伊勢武らと記述されているが、他の説もあり、真相は定かではない。
因みに芹沢鴨本人だと確実に断定できる写真等は未だ見つかっておらず、通説によれば背は高く恰幅も良く、色白ではあるが神道無念流の免許皆伝者に相応しい、武芸然とした見た目だったとも伝えられている。
芹沢鴨が行ったとされている悪行と新選組の評価
芹沢鴨が浪士組、壬生浪士、新選組で筆頭局長の地位にありながら、朝廷や会津藩、そして隊内の勢力争いもあり、結果的には近藤勇らの一派に粛清された事は述べたが、彼が行ったとされている悪行も少し紹介したい。
芹沢鴨は当初より、配下の新見錦と同様に商家への寄付の強要(事実上の略奪)、民間人への暴行などが伝えられており、大阪では往来で道を譲る譲らないと言う些末な理由で、力士を相手に抜刀、死者1名、負傷者14名もの刃傷沙汰を引き起こしている。
また1863年8月には京の葭屋町一条で生糸商を営んでいた大和屋に対し、例によって寄付を要求、これをはねつけられた事に立腹し、何と大砲を放って火災を引き起こしており、素行が良くなかった事は事実なのだろう。
しかし近藤勇らの一派が芹沢鴨らを粛清し新選組を掌握した後、時代は進み戊辰戦争に突入、隊士達も実際の戦闘で多数が落命したが、京の民らの間ではそのことを歓迎する唄までが流行したとも言う。
それを鑑みれば、昨今の日本における新選組の評価、つまり時代が大きく変わろうとも士道に殉じ、江戸幕府に忠誠を誓い戦い続けたと言う雰囲気は、当時の京の人々の感覚とは大きな乖離があるようにも感じる。
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