犯人射殺は殺人罪?瀬戸内シージャック事件と狙撃手の悲劇

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戦後80年間に日本国内で起きた凶悪犯罪で、犯人射殺により解決したケースは極端に少ない。人質事件に限定すれば、わずか3件を数えるのみだ。
法の執行官による銃器使用のハードルは国ごとに異なるので、単純に数字のみで比較するのは片手落ちではあるのだが、それを差し引いてもわが国の射殺件数は際立って少ない。それにはいくつかの理由が考えられる。
治安のよい国であること。危険の排除を最優先する銃社会とちがって、証拠を固めてから逮捕にふみきること(現行犯は除く)。つまり、逮捕に対する認識がちがうこと。そして、日本警察が銃器の使用にきわめて慎重であること。

平成13年(2001)、警察庁は緊急時には威嚇なしに発砲できると定めたが、その後も銃弾の使用に抑制的であることに変わりはない。発砲により犯人が死亡するような事態になればメディアは騒ぐし、人権派も黙ってはいない。場合によっては犯人の遺族から国家賠償請求訴訟が起こされるリスクもある。射殺という選択肢は、今まさに誰かの命に危険が迫るなど切迫した状況の最終手段なのだ。

狙撃という解決手段に日本警察が消極的になったターニングポイントとして、昭和45年(1970)の瀬戸内シージャック事件を挙げる声は多い。
いつ人質の命が奪われるかもしれない危急の状況下で、すべてを救ったのはスナイパーが放った1発の銃弾だった。糸が切れた操り人形のように崩れ落ちる犯人の姿が全国に生中継されてお茶の間に衝撃を与えた。しかし、警察の選択は大きな波紋を呼ぶことになる。

「ほかに方法はなかったのか」
「射殺は行き過ぎだ、腕か脚を撃つべきだった」
「これは裁判によらない処刑である」

人命を救った正義の銃弾であったはずなのに、狙撃手は告訴され、メディアに実名や写真を公開されてさんざん吊るし上げられたのだ。
よど号ハイジャック、万博の太陽の塔アイジャック、そして瀬戸内シージャック。いろいろなジャックに揺れた年だった。

目次

特殊銃隊創設とゴールデンベア

日本警察に特殊銃(拳銃以外の銃)が配備される契機となったのは、日本初の劇場型犯罪といわれる昭和43年(1968)の金嬉老(キム・ヒロ、きんきろう)事件だった。在日朝鮮人2世の金が暴力団員を射殺し、豊和M300とダイナマイトで武装して13人を人質に旅館に籠城したのだ。
このとき、警察が装備していた拳銃では射程が短すぎ、突入するにも危険性が高すぎた。最終的に、記者に変装して潜入した捜査官に金は確保される。

事件後、警察庁はこれを教訓に犯人制圧用の狙撃用ライフル・豊和ゴールデンベアを導入し、それを運用するための特殊銃隊を創設、狙撃手の育成に着手する。これが日本初の狙撃専門部隊である。
とはいえ、当時はまだ常設の部隊ではなく、有事の際に召集される臨時編成にすぎなかった。この特殊銃隊が初めて出動し、一躍有名になったのが金嬉老事件の2年後に起きた瀬戸内シージャック事件であり、このとき使用された狙撃銃がゴールデンベアだった。

やがてゴールデンベアの退役にあたって、フルモデルチェンジ版の豊和M1500を新たに採用。それまではパートタイム部隊であった特殊銃隊を常設の部隊として再編成し、銃器対策部隊と改称したのが1996年のこと。俗にいう「銃対」とはこの部隊をさす。この改編によって対テロ作戦やSATの後方支援も担当するようになった。

シージャック前夜

昭和45年(1970)5月12日夕刻、広島港に停泊中のぷりんす号がライフルをもった若い男に占拠され、乗員乗客46人が人質にとられた。同船は広島と愛媛を結ぶ瀬戸内海の定期旅客船で、乗っ取った男は川藤展久(かわふじのぶひさ)、年齢は20歳。
このとき、すでに川藤は逃走中だった。悪友2人と乗用車を盗み、警官を刺傷したあげくに検問を突破して、最後の1人となってたどり着いた場所が広島港だったのだ。
瀬戸内シージャック事件とは12日から13日にかけて海上で発生した旅客船乗っ取り事件をさすが、そもそもの発端は福岡市内で起きた
自動車盗難事件である。時計の針を2日前に巻き戻す。

5月10日深夜、川藤は少年A、Bとともに盗んだ車で東に向かっていた。日付が11日に変わったころ、山口県の国道2号線の追い越し禁止区域にて前方の車を追い越したため、検問を張っていた警察の停車命令を受ける。挙動を不審に思った警官がナンバーを照会したところ、当該車両に盗難届がでていることが判明。パトカーにBを、盗難車に川藤とAを振り分けて連行することにした。
ところが、川藤は以前に盗んだ猟銃を車内に隠しもっていた。パトカーが先に出発したのを見計らい、銃を取りだして運転席の警官に突きつけたのだ。もみ合いになったところにAが加勢し、警官の胸をナイフで刺した。川藤とAは苦しむ警官を路上に放りだしてその場から逃走する。
ただちに非常線が張られたが、2人は別の乗用車を盗んで乗り換え、新しい服に着替えて巧みに検問をすり抜けていく。

さしあたって必要なのは逃亡資金だった。川藤とAは土地勘のある広島市の中央郵便局襲撃を企てる。
警察の目をあざむくために慎重に動いた。電車を使い、広島駅のひとつ手前の横川駅で下車すると、ここにも警戒網が張られているようだった。夕刊も自分たちのことを大きく報じている。
強盗をあきらめた2人はいったん山中に身を隠し、その夜は野宿した。

20歳の逃亡劇

川藤は少年時代から盗みや家出をくり返す問題児だった。10代のころに20件もの窃盗罪で逮捕され、施設に収容されたことがある(少年院か少年刑務所かは不明)。社会にでても更生する気はなく、勝手気ままに生きてきた。
「捕まってたまるか。警察がやってきたら撃ち合いだ。逆に拳銃を奪ってやる」
のちに少年Bが証言した川藤の言葉である。そして彼はこれを実行する。

翌12日の昼ごろ、猟銃をもった2人組が山に潜伏しているとの通報が近隣住民から入る。現場に急行した警官が遠くに川藤らしき人物を発見し、通りがかりの軽トラックの協力を得て尾行する。
運悪く、踏切のところでその人物と鉢合わせた。やはり川藤だった。拳銃を構えて警告すると、いきなり猟銃を取りだしたため、威嚇発砲した。しかし川藤は動じることなく、協力者の運転手に銃口を突きつけて拳銃と実弾を荷台に置くよう要求する。警官はトラックを明け渡し、言うとおりにせざるをえなかった。
つぎに川藤は広島県警本部のお膝元である市の中心部に向かうよう運転手に指示。この大胆不敵な行動が捜査陣の目をくらませることになる。
なお、川藤の確保に失敗した警官はAを発見し、格闘の末に逮捕した。

16時、1人になった川藤は県警察本部の目と鼻の先にある銃砲店に押し入り、ライフル、散弾銃、大量の弾丸と散弾を強奪。店を飛びだすと、検問をすり抜けるためにタクシーをつかまえて広島港に乗りつけた。停泊中の旅客船が視界に入る。すでに腹は決まっていた。

ライフルを乱射しながら桟橋を駆け抜ける。乗船を阻止しようと追いかけてきた警官が被弾した。
ぷりんす号に乗り込むと、まっすぐ操舵室に向かい、「どこでもいいから大きな街に行け」と船長を脅迫。乗員9人、乗客と見送り客37人を乗せたまま、船は17時15分に強制出航する。予定時刻より早い出航を乗客は訝しんだ。

メディアの暴走

その後、ぷりんす号は瀬戸内海で逃走をつづける。広島県沿岸各地には緊急配備が敷かれ、近隣県警本部もヘリコプターを出動させて
追尾にあたる。海上保安庁は巡視艇を、海上自衛隊は掃海艇や支援艇を派遣して協力した。
川藤は警備艇を狙撃して警官の胸に貫通銃創を負わせたのち、投降を呼びかける巡視艇や、たまたま近くを航行していた民間のモーターボートに銃口を向けては無差別銃撃をくり返す。地元の放送局と新聞社がチャーターしたセスナ機は、銃弾が燃料タンクを破壊して燃料が漏れだしたため、あわや墜落寸前になった。

現場には事件発生を聞きつけたマスコミ各社が押し寄せて、熾烈な報道合戦がはじまった。上空にはスクープ映像を狙うヘリが旋回して川藤を刺激する。
報道規制も放送倫理も整備されていない時代である。現場の状況は逐一生中継されてしまう。自分たちが人質になったことを乗客が知ったのは船内のラジオ放送だった。当然、情報は川藤にも筒抜けになる。過剰な取材攻勢は、ときに人質救出を妨げる。

21時40分、それまで沈黙していたぷりんす号の中向文人船長が口を開く。
「わたしが人質として残るから、ほかのみんなを解放してくれないか」
鼻で笑う川藤に船長がつづける。
「そう吞気にかまえてもいられないぞ。じつは燃料が残り少ない。どこかの港で給油しなければ」
それまで川藤を冷静に観察していた船長は、確信した。

——この男は船をよく知らない。

恐怖に震える乗客をよそに、船長の機転によって、ぷりんす号は通常よりはるかに遅い運航速度で愛媛・松山に進路をとる。運航速度をおとしたのには、もちろん狙いがあった。警備艇が追尾しやすくするためと、入港先の港に厳戒態勢を敷くための時間稼ぎである。

川藤と警察の攻防

もっとも、1人で船を乗っ取った時点で川藤は詰んでいた。人間は眠らずにいることはできないからだ。単独犯であるかぎり、チャンスは必ずやってくる。しかし、その前に人質の命だけはなんとしても助けなければならない。

一方、こちらはぷりんす号入港を控えて緊張が走る松山観光港。愛媛県警は、給油作業員に扮した警官を潜入させて犯人を取り押さえる作戦をたてるが、川藤の「油は載せても人は乗せるな」のひと言で立ち消えとなる。
13日0時50分、給油の交換条件として乗客が松山にて解放される。つぎに川藤が要求したのは、やはりAとBの釈放だった。広島港に帰港するから仲間を連れてこい、という。

ぷりんす号が広島港の沖合に姿をみせたのが8時50分。このころには父親と姉が現場に到着して説得にあたったが、川藤は「帰れ!」と一喝して銃弾でお返しする。ここでも見境なく発砲し、警官に重傷を負わせたり、偵察中のヘリコプターを墜落寸前にしたりした。
パイプ役をかってでた船長が船を降り、以下の2点を警察に伝える。
川藤はぷりんす号を再出航させるつもりでいること。
どうせ死ぬなら警察と銃撃戦をして死にたいと考えているらしいこと。

ちょうどそのころ、広島県警の要請を受けた大阪府警の特殊銃隊の狙撃手5人が海上自衛隊のヘリで現場に到着。これ以上の被害拡大を恐れた広島県警本部長は、緊急避難措置として犯人への発砲を許可する。「射殺やむなし」と判断したとすれば、このタイミングだったのだろう。

狙撃の瞬間

9時52分、川藤が乱射を一時中断し、なにを思ったか、丸腰の無防備な状態で船のデッキにあらわれた。警察になにかを訴えるが、風にかき消されてよく聞こえない。
千載一遇のチャンスだった。船から40メートル離れた防波堤の陰に身を潜めていた狙撃手がゴールデンベアを構え、スコープをのぞき込む。
つぎの瞬間、タンという乾いた音とともに川藤が不意にくずおれた。銃弾は左胸を貫通、しかし絶命していない。デッキを這いずりながら手すりをつかみ、ライフルに手を伸ばそうとしたところでがっくりと力つきた。
警官につづいて、記者とカメラマンも船内になだれ込む。どこよりもスクープを、どこよりも視聴率を。
射殺の瞬間は全国に生中継されて視聴者の度肝を抜いた。40メートル離れた地点からライフルで撃たれた人間はこうなる、ということをまざまざと見せつけた映像だった。日本において、犯人射殺はそれほどセンセーショナルだったのだ。

川藤は搬送された病院で死亡が確認された。のちに中向船長が語ったところによると、最後の言葉は「死んでたまるか、もういっぺん……」だったという。
18時間におよぶ逃走劇は、結果的に犯人以外の死亡者を1人もだすことなく幕を下ろした。

人権派弁護士が狙撃手を告発

一連の犯行で川藤が使用した実弾は110発以上、被疑容疑は強盗罪、殺人未遂罪、公務執行妨害罪、強要罪、威力業務妨害罪、器物損壊罪、逮捕監禁罪、艦船損壊罪、航空法違反、銃砲刀剣類所持等取締法違反。
しかし、罪を償う機会は永遠に失われた。車の窃盗が検問でばれたことに端を発した、場当たり的な犯行ではあったが、最終的にどこへ向かう心づもりだったのか、なぜ船舶を選んだのかもわからずじまいになった。
13日付読売新聞夕刊によると、川藤を狙撃したのは大阪府警の巡査部長、41歳。100メートル先の10センチ四方の標的に連続して10発を命中させる射撃の名手であったという。

多くのメディアは「射殺は妥当」という論調で事件の終幕を報じたが、もちろん、これで一件落着というわけにはいかなかった。強硬手段によって犯人が死亡したという厳然たる事実があったからだ。
翌々日には、自由人権協会の弁護士2名が狙撃手と狙撃を命じた広島県警本部長を殺人罪、殺人教唆罪、特別公務員暴行凌虐罪で広島地検へ告発した。

「犯人の行為は悪質であるが、その生命にも尊厳があることに変わりはない。腕や脚を撃つことで目的を達成することができた。残酷きわまる方法で殺害行為にでたことは人道上の見地からも到底許しがたい。このような行為を放置しておいては、警察官の職権乱用行為が頻発し、国民の生命が脅かされる事態の発生さえ予想される」

あなたはこの主張をどう考えるだろうか。
驚いたことに、人権派が非難の声をあげたとたんメディアも手のひらを返した。各社が一斉に狙撃手と県警本部長をバッシングするようになったのだ。さらに、川藤は2か月前のよど号ハイジャック事件に触発されたのではないかと勘ぐる者もあらわれて、模倣犯を防ぐための見せしめに射殺したと糾弾する声もあがった。事実、川藤はただの1人も殺害してはいなかった。

はたして射殺は「やむをえない必要最小限」の措置だったのか。
狙撃して死亡させた巡査部長の認識や、海上からみた緊急性の度合いを焦点に詳細な調査が行われた。
最終的に、狙撃手の行為は刑法36条の正当防衛に該当し、県警本部長の発砲命令も刑法35条、警察官職務執行法7条の正当行為にあたるとして不起訴処分になっている。

なお、人権派やメディアによる否定的な論調とは裏腹に、世論はおおむね射殺を支持するスタンスをとっていた。以下は川藤展久の父親の言葉だ。
「親として、死んでくれてせめてもの償いができた。警察に抗議するつもりはない」

事件の私見

後味の悪い事件である。個人的には、これがなぜ殺人罪にあたるのか理解に苦しむ。
仮に腕や脚を狙撃しても、犯人の脅威を一瞬で確実に無効化できなければ意味がない。本件のようなケースでは、人質に危害がおよぶ可能性をわずかでも残してはならないのだ。バイタルゾーンを避けた狙撃により犯人が逆上すれば、最悪のシナリオすら招きかねない。実際、警察が強硬手段にでて反撃されたケースもある。平成15年(2003)に東京都板橋区で起きたアパート立てこもり事件だ。

川藤が1人も殺害していないのも事実だが、それは結果論にすぎないだろう。犠牲者がでてからでは遅い。人質に危険が迫っている切迫した状況では、早期解決という選択肢は当然ありうる。人質をとるということはそういうことだ。
100発を超える銃弾を無差別に乱射し、まだ大量の実弾をもっていたこと。このまま再出港させると重大な事態を引き起こす危険性があったこと。自暴自棄になった人間はなにをするかわからない。
もし対応が遅れて犠牲者がでていたらどうだろう。メディアは鬼の首をとったように警察の失態を非難したのではないだろうか。

警察官職務執行法では、武器使用の条件について、「必要と認められる相当な理由がある場合」に「必要最小限の範囲」で使用することが規定されている。ただし、原則として相手に危害を与えてはならず、危害を加えてよい場合は正当防衛や緊急避難に該当するケースなど、さらに限定的になる。
たとえ加害要件を満たしていても、その程度が大きなポイントになってくる。正当防衛が防衛の程度を超えると過剰防衛になり、避難行為が必要最小限の限度を超えると過剰避難になってしまう。

のちに県警本部長は、「急所を外すように指示した」、「右腕を狙わせたが、外れて左胸に着弾してしまった」と説明した。過剰防衛・過剰避難とみなされるのを恐れたがゆえの発言だろうか。それとも本当に殺意はなかったのか。
狙撃した巡査部長は、40メートル先の標的を撃ち損じることはまずありえない射手だった。とはいえ、実際の事件現場では犯人も動くし、船も揺れる。真相はわからない。
また、脳幹を撃たれた場合は確実に即死するから、目的が射殺であればヘッドショットという選択肢もあっただろう。わかっているのは、銃弾は川藤の左胸部を貫いたということだけだ。

事件の余波

戦後日本で、犯人射殺によって解決したはじめての人質事件となった瀬戸内シージャック事件。
その後、くだんの巡査部長は離職に追い込まれた。メディアの執拗なバッシングに耐えきれず、みずから警察を去ったのだ。当時の後藤田正晴警察庁長官はこう語る。
「マスコミが嗅ぎつけてね。いつも記者に張りつかれ、実名や顔写真がでてしまった。辞めたよ。気の毒なことをした」
警察は彼を守れなかったらしい。日本警察は1人の優秀なスナイパーを失った。狙撃手の顔と名前を伏せるようになったのは、この事件以降のことだ。

瀬戸内シージャック事件の顛末は、その後の凶悪犯罪において日本警察が犯人射殺に慎重にならざるをえない風潮をもたらした。
昭和47年(1972)のあさま山荘事件では、機動隊の強行突入により人質救出に成功。2名の殉職者をだしながらも犯人を射殺せず、連合赤軍の残党5名を全員逮捕した。この事件ではライフルの使用は許可されず、銃を発砲するのに警察庁のGOサインがその都度必要となる警察庁許可という制限がもうけられた。「警察との戦いで死んだ犯人が英雄視されては不都合だから、全員生け捕りにせよ」という後藤田長官の意向もあったが、そこには瀬戸内シージャック事件の狙撃手の二の舞を踏むことへの恐れも当然あった。
なお、あさま山荘事件の犯人の1人である坂東國男は現在も国際指名手配中である。彼はクアラルンプール事件の際に超法規的措置によって釈放され、のちにダッカ日航機ハイジャック事件を引き起こして、人質の命を盾に獄中の赤軍派メンバーらの釈放を日本政府に要求した。「人の命は地球より重い」という有名なフレーズは、釈放要求に応じた福田赳夫首相の言葉である。余談になるが、2週間後に起きたルフトハンザ航空ハイジャック事件でのGSG-9による強硬手段(犯人射殺)とはあまりに対照的な対応だったことから、「日本は車や家電だけでなくテロも輸出するのか」と国際社会から非難の声もあがった。

昭和54年(1979)に大阪府で発生した三菱銀行人質事件では、存在自体が長いあいだ非公表となっていた第2機動隊零中隊(SATの前身部隊)が突入し、犯人を射殺した。このときは拳銃による犯人への一斉射撃という方法がとられた。誰の弾丸が致命傷を与えたのかをわからなくする一方で、人を殺害した罪悪感をやわらげる目的もあったことが元隊員の証言でわかっている。

人質事件における警察の対応はもとより、報道のあり方や社会の倫理観などさまざまな問題を投げかけた瀬戸内シージャック事件。
報道規制も放送倫理も整備されていない時代、警察の対応にはかなり苦しいものがあったと推測する。そのような状況のなかでよく狙撃を決断でき、カメラの前で引き金を引けたと思う。

人の命を奪う銃と、人の命を救う銃。
「銃はただの道具だ。農具と同じさ。使い方しだいで価値は変わるがね」
西部劇の名作『シェーン』で主人公がつぶやいた言葉を思いだした。

※画像はイメージです。

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