日本の長い歴史の中において、様々な時代はあれど、やはり大多数の人々から注目を集め、高い人気を得ているのは、戦国時代と幕末・明治の2つが群を抜いていると言うのは間違いないだろう。
歴地物ドラマの代名詞的な存在とも言えるNHKの大河ドラマ、その舞台として描かれる作品の時代設定も一部の作品を除き、この戦国時代と幕末・明治の2つの時期が大半を占めている事からもそれは窺える。
とりわけ戦国時代の方は、日本全国に群雄割拠した戦国武将達がしのぎを削った乱世が舞台と言う事もあり、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑はもちろん、それ以外の人物を主役に据えた作品も多い。
そんな中の一人に戦国時代の末期に名うての戦上手と謳われ、宿敵である武田謙信と激しい戦いを繰り広げた上杉謙信がおり、毘沙門天の化身を自称した彼の武名は高く、非常に人気の戦国武将だ。
上杉謙信は殊に戦術レベルでは無類の戦強さを誇り、宿敵であった武田信玄はもちろん、織田信長も一目を置いた存在と目されているが、そんな彼を破ったほぼ無名の戦国武将がいるとの説もある。
その上杉謙信を破ったと一部で伝えられているのが、白井胤治(しらいたねはる)であり、出家した後は浄三(じょうさん)の号を称したとも伝えられている戦国武将である。
白井胤治と言う戦国武将
白井胤治と言えば前述した通り、戦国一の戦上手とも謳われた越後の上杉謙信破った人物として、一部の記録にその名を確認する事ができるが、実際の存在そのものが問われる程に情報が少ない。
まず白井胤治は戦国武将で且つ、その中でも軍師的な立ち位置の人物だったと扱われる事が多いようだが、生年及び没年ともに不詳であり、1566年に下総の臼井城の籠城戦で上杉謙信を破った逸話だけが目を引く。
ひとつの説で白井胤治は、下総の豪族から守護大名を経て戦国大名となった千葉氏に仕え、その当主である第25代の利胤、第26代の親胤、第27代の胤富の3代に渡って配下であったとするものがある。
また別の説で白井胤治は、織田信長が台頭する前に近畿地方を事実上支配していた三好長慶、その死後に三好氏を支えた3人衆の一人である三好長逸の元に軍師として仕え、修行の一環で関東を訪れていたとするものもある。
白井胤治は最初の説が正しければ下総を地盤とした戦国武将となり、後者が正しければその当時の中央から、何らかの使命を受けて下総に入った事になる訳だが、何れかは判然としていない。
但し千葉氏に仕えていたとすれば、同氏は近隣の常陸の佐竹氏、小弓公方の足利氏、安房の里見氏の攻勢に晒され、小田原を拠点に関東地方で台頭した後北条氏と姻戚となる事でその所領を維持しようとした。
下総の臼井城での籠城戦で上杉勢が破れた際には、同城は後北条氏に与した千葉氏家臣の原胤貞が治めていた事から、白井胤治が同様に千葉氏に仕えていたならば、その戦いに参画してもおかしくはないように思える。
白井胤治が三好長逸の配下であったとする説では、彼は偶然にも上杉勢が攻め寄せた下総の臼井城に居合わせ、助太刀して上杉勢と対峙した事になるが、個人的にはその展開はあまり真実味があるとは感じられない。
下総の臼井城を巡る攻防戦
下総の臼井城を巡る攻防戦の始まりは、その前年の1565年11月に端を発しており、上杉謙信(実際にはこの時点では上杉輝虎を名乗っていたが、分かりにくいので謙信と表記)は関東管領の肩書の元、同地の平定を企図した。
当時の関東は後北条氏が台頭していた状況で、翌1566年2月に上杉謙信は後北条氏に与する常陸の小田氏の小田城を先ず陥落させ、続けて下総の高城氏の小金城へと兵を進めた。
そしてその流れで同年3月に凡そ15,000名とも言われる大軍を引いて後北条氏に与する下総の原胤貞の臼井城の包囲を敢行した。一説にはこの時、臼井城には凡そ2,000名程の兵しかなく、落城は時間の問題と思われた。
臼井城を失う事を危惧した原胤貞は、かつての主家たる千葉氏、そして今の主家たる後北条氏に援軍を乞うたが、前者は自らの居城・佐倉城の防衛で手一杯の状態、後者も里見氏と対峙中で余力は少なかった。
それでも後北条氏は松田康郷を筆頭に250騎程の援軍を何とか送ったが、臼井城は上杉勢の猛攻の前に3月下旬頃には落城寸前まで追い込まれ、上杉勢が勝利を収める事は九分九厘間違いなしと思われた。
しかしここで敢然と上杉勢に立ち向かったのが白井胤治であり、彼は原胤貞から指揮を任されると巧みな弁舌を以て臼井城の兵の士気を高め、上杉勢の総攻撃に合わせて逆に全ての城門を開いて迎撃を行わせたとされる。
追い込まれていた臼井城の兵達は決死の突撃によって上杉勢に襲い掛かり、前述の後北条氏からの援軍であった松田康郷も「赤鬼」と称されるほどの突撃を見せ、上杉勢を一旦推し戻す事に成功した。
その後、この決死の臼井城兵らの突撃を警戒した上杉勢は一旦攻撃を止め様子を見る形に切り替えたが、そうなると臼井城側も突撃を控えた為、上杉勢は再度力攻めで落城を狙い、攻撃を再開する。
するとその動きを読んでいた白井胤治は、上杉勢が殺到した場所の城壁を倒して多数の敵兵を削り、これに上杉方が怯んだ隙をついて更に突撃を敢行、結果上杉勢は翌4月中頃までに臼井城攻めを断念し撤退した。
この一連の下総の臼井城を巡る攻防戦において、こうして戦国武将としてはそれまでほぼ無名とも言えた白井胤治が、上杉謙信を退けたと言う逸話によって、彼の名は今日まで語り継がれている。
この戦いで白井胤治が見せた采配は精強な上杉勢を撃退した事、更にその内容に彼が臼井城の兵の士気を巧みに鼓舞した事、城門を全て開け放った突撃させた事、城壁の破壊と言う奇策とも相まって伝説の軍師と言う逸話に昇華されている感がある。
上杉勢がこの臼井城を巡る攻防戦に敗れ、関東管領と言う権威をもってしても同地の平定に躓いた事は事実ではあるが、そこに上杉謙信自身が参陣していたのか否も含め、純然たる史実とは見做されていないようだ。
その後の白井胤治とその子孫
これまで見てきたように下総の臼井城を巡る攻防戦において、精強な上杉勢を撃退し臼井城を守り抜き、その後の後北条氏側の関東支配に貢献したと言う逸話を持つ白井胤治だが、その後の足跡も一次史料には見当たらない。
しかし「足利季世記」と言う軍記物によれば、阿波(現在の徳島県)において、かつて織田信長に京から駆逐された三好勢が再び権勢を取り戻すべく開催された軍議にその名が記されている。
そこでは出家した後の白井入道浄三と言う名で記されており、そこで彼は摂州の野田と福島に拠点を構えるべきだと主張、実際にその提案が受け入れられたとして、軍師として戦略眼を示す逸話にも見える。
白井胤治は男子に恵まれず先ず養子の宗幹を跡継ぎとし、その後、実子として2人の男子が生まれたが何れも後北条氏に仕え、豊臣秀吉による関東征伐によって浪人になったとされる。
しかし宗幹はやがて豊臣秀吉の直臣に取り立てられ、2人の実施も豊臣秀次に仕えたとされる。白井家は宗幹の三男である幹時が後を継ぎ、その長女は徳川家康、次女は淀君の侍女となったと伝えられ、加えて幹時の子は水戸徳川家の家老に起用された。
白井胤治という武将の実像
最後に少し触れたように、白井胤治は養子・実施ともに子孫の足跡が確認されており、殊に養子として白井家を継いだ宗幹の孫は水戸徳川家の家老職にまで就いているので、人物自体が実在した事は間違いないだろう。
但し個人的は白井胤治が軍師として知略を発揮して、上杉謙信との下総の臼井城を巡る攻防戦に勝利を収めたと言う点は俗説の域を出ない、戦国時代特有の痛快な逸話のひとつ見るべきではないかと感じる。
※画像はイメージです。


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