本稿執筆時点で2025年1月、すなわち巳年である。
昨年同様、干支を題材としよう。
巳すなわち蛇とは、人に大変身近な生物でありながら、神聖さと邪悪さがない交ぜになった存在であり、数多の伝説に登場する。
妖怪変化の類もあれば、神々のモチーフにもなっている、大変オカルトと親和性が高い生物と言えよう。
蛇恐怖の構造
生物としての蛇を嫌う人間は多い。
自分にダメージを与えるサイズでなくても、かなり強い嫌悪感を持つ場合がある。
これは、「毒があると知った」「親が怖がるのを真似た」といった、後天的学習に限らず、霊長類に共通する本能であるとされる。
感情だけでなく感覚の部分でも、霊長類は蛇の視認能力に長けているという。
進化論で解釈するなら、蛇を恐れ、いち早く見つける霊長類が生き残りやすかった、という事になる。
これは、霊長類の祖先が樹上生活していた事に結び付く。
自衛能力皆無のナマケモノが生きていける事からも分かる通り、樹上は大変安全な場所である。
霊長類の持つ器用な指は、枝を掴み、素早く安定した木登りを可能とする。「掴む」動作は、爪を引っかけるだけより遥かに保持力が強い。
霊長類が握力限界まで樹を登った時、同じ高さにやって来られる猫科肉食獣は、遥かに体重が少ない個体という理屈になる。
重量差は力の差であるから、そんな小さな獣であれば、武器の少ない霊長類でも対処可能となる。
鳥類による捕食も同様の理由で回避出来る。樹に必死にしがみつく霊長類を、鳥の鉤爪だけで引き剥がすのは難しい。
そんな安全圏である樹上で、最も危険なのは蛇である。蛇は軽量で木登りに長け、細長い身体は隙間に入り込みやすく、そもそも小さいため目立たない。
毒を持つ個体は当然危険であるが、無毒であっても赤ん坊にとっては危険だ。
蛇は全身が捕食器官である。触手か指そのもののようなものだ。見落とすほど小さい蛇であっても、赤ん坊を食べたり絞め殺す事が可能となる。
このため、蛇に鈍感な霊長類個体は滅び、蛇に恐怖や不安をもって対処するものが生き残った訳だ。
根源的な恐怖は、神聖と容易に結び付く。
怖(おそれ)と、畏(うやまい)の壁は、そこまで厚くない。
平凡と聖邪を分かつもの
蛇の性質の他に、蛇の姿も神聖視のきっかけになっている。
大学時代、人類学の講義で故・足立明先生に教わった話だが、「普通でなく、中途半端なもの」は、神聖か邪悪、どちらかに極端に偏るという。
処女なのに懐胎した女(聖)、死んだのに復活した人(聖)、雌花がないのに実を結ぶ作物(邪)、指が多い(聖)、落ちそうなのに落ちない岩(聖)、水に棲むが魚ではない(邪・聖)、昼なのに太陽が暗くなる(邪・聖)、皮膚や眼球に色素がない(聖)などなど。
動物なのに手足がない蛇は、中途半端な生物の代表格と言える。
平凡は省みられず、非凡なら属性が付く事自体は当たり前ではあるが、ポイントはそこと少し違う。
ここで大事なのは聖邪どちらか、ではなく、両方に偏る、という部分だ。

神話の中の蛇
蛇は聖邪いずれの文脈でも語られる。
ギリシャ文明では、アスクレピオスの杖に絡み、ケーリュケイオンでは2匹が向かい合わせになる。一方、大地母神ガイアの子孫にはしばしば蛇が現れ、オリュンポスの神々と対立する。
ギリシャ文明と結びつきが強いエジプト文明では、蛇が神聖視されている。ツタンカーメン王の棺で鎌首をもたげるコブラが記憶に残っている人も多いだろう。
蛇と竜の境目は曖昧で、仏教では釈迦の誕生を竜神(ナーガラジャ)達が祝い甘露を降らせている。また、瞑想時に蛇(ナーガ)が傘になって、釈迦を風雨から守ってもいる。
キリスト教では、イブをそそのかしたリリスは邪悪な蛇であり、黙示録に現れるルシファーも蛇(ドラゴン)の姿を取る。一方、知恵の象徴や、十字架に絡みついて聖なるシンボルになる事もある。
これらの中でも、尻尾を噛み円を描くウロボロスは、比較的良く知られるものだろう。
円環により永遠を象徴するが、永遠は古今東西の神が持ちやすい属性であるため、極めて明確な聖なるシンボルと言えるだろう。
輪廻するウロボロス
蛇は元より永遠を象徴しやすい性質を持つ。
地を這い、穴から姿を出す様子は、土より出でて切っても切っても伸びる、植物の蔓とイメージが繋がる。
動植物の分類が曖昧だったカール・フォン・リンネ以前の人々にとって、蛇は無限に生じる雑草だったかも知れない。
動物としても非常に生命力が強く、飢えにも耐える。仮に頭を潰しても、かなり長い間身体が動き続ける。そもそも骨がしっかり入り、筋肉も強いため、そう簡単に潰す事も出来ない。自動車に轢かれても、容易にはちぎれない。
そして、脱皮はあたかも若返ったかのように見える。
故に地母神と結びつけられた訳だが、ウロボロスはこれを更に拡大解釈したものと言えるだろう。
ウロボロスは、自分の尻尾を「咥えて」いるように見えるが、「食べて」いると考える方が正しい。
食べながら再生し、それをまた食べるという永久機関が成立している。
ヒンドゥー教の宇宙観で、宇宙を囲む蛇がやはり尻尾を咥えているが、こちらも食べていると考えるべきだ。これは単なる蛇ではなく、回る天空、恐らく太陽を象徴しているため、食べ進めず静止していては世界の説明にならない。
ウロボロスのその先
ウロボロスが実在する場合、何が起きるだろうか。
いかな生命力があろうと、消化吸収から肉体を生成するまでのロスがあるため、エネルギーを外部から吸収し続ける事になる。
塩吹臼の逆のように、回って喰い続けながら周囲からエネルギーを吸い取り続ける。
これはやがて地球全体を呑み込み、太陽系を呑み込み、宇宙全体を取り込む流れとなる。
その先にあるのは、次のビッグバン、すなわち、ウロボロスは質量の底、ブラックホールの擬化となるのではなかろうか。
本年巳年、1年を収縮して貯め込むか、それを過ぎてビッグバンの年とするか、少し意識して見るのも良いだろう。
※画像はイメージです。
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