主君である織田信長に付き従い、その覇道の一翼を担い織田家の最盛期を支えた重臣のひとりに数えられるのが滝川一益であり、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀らと共に織田家の宿老と称される事も多い。
しかし日本史上あまりにも有名な本能寺の変が天正10年(1582年)6月に突如として明智光秀によって起こされ、織田信長とその嫡男・信忠は自刃して果てた為、滝川一益を含む宿老ほぼ全員の命運も暗転する事となった。
織田家を代表する猛将と謳われた柴田勝家、同知将と謳われた丹羽長秀、同謀将と謳われ戦国時代最大の謀反人となった明智光秀に比すれば、少し地味な印象も拭えない滝川益一をここでは取り上げて見たい。
滝川一益の前半生
滝川一益の生年は大永5年(1525年)とする説が一般的だが、父親の名や地位を始め確定的な情報が無く、近江の国の甲賀郡の出であるとする説が巷間には多く見られるが、それも事実か否かは不明である。
近江の国の甲賀郡は忍びの里として著名であるため、滝川一益自身もその系譜にあると考える意見もあるが断定は難しく、鉄砲の扱いに長じていた事から織田信長に認められ家臣となったとも伝えられている。
但し滝川一益が織田家の家臣となったのが何時なのかについても正確な資料等は無く、史実として辛うじて確認されている最初の事績は永禄3年(1560年)に北伊勢にある桑名を織田家の傘下に置く事を信長に進言したものだ。
ここで滝川一益は北伊勢・桑名の長島城主で織田方と対峙していた服部友貞を欺き、織田方に備える為と称して蟹江城築城の費用を負担させ、築城が終わると自らがその城主となったと伝えられている。
またその3年後の永禄6年(1563年)、滝川一益は後の徳川家康と織田信長との清州同盟の締結に向けた交渉役に抜擢されており、先の蟹江城の逸話を始め、工作や交渉に長けた人物として織田方で重用された感が強い。
こうして織田家で頭角を現した滝川一益は、永禄12年(1569年)には当時北畠家の養子となっていた織田信長の次男・信雄の家老に自身の娘婿を据えたとされ、また攻略した北伊勢を領地として与えられている。
鉄砲隊に加え水軍を率いても武功を挙げた
滝川一益自身が鉄砲の扱いに長じていた事が織田家への登用に繋がった可能性は前述した通りだが、 天正2年(1574年)の長島一向一揆勢との戦では九鬼水軍として著名な九鬼嘉隆とともに水軍を指揮したと言う。
滝川一益の率いた水軍は船上から鉄砲による攻撃を長島一向一揆勢に加えて、織田方の戦の勝利に貢献したと伝えれており、4年後の天正6年(1578年)に生起した2度目の木津川口の戦いでも同様に水軍を率いて武功を挙げている。
話は前後するが天正3年(1575年)の武田方との長篠の戦いは、今ではフィクションと見做されている織田方の鉄砲三段撃ちで有名だが、滝川一益は織田方の鉄砲隊の総指揮を務め、その勝利に貢献している。
今日ではこの長篠の戦いは、織田方が鉄砲隊を集中運用した事は間違いないとしながらも、織田方約38,000名、武田方約15,000名と兵数で2.5倍以上の開きが勝敗を決したと解釈する向きが大勢を占めている
天正8年(1580年)に滝川一益は、当時武田家と対立関係にあった関東の北条家など、関東諸将に対する織田家内での申次を担い存在感を高めるが、後に北条勢には手痛い反撃を受ける事となる。
一時期は戦国最強とも謳われた武田家の滅亡の立役者
織田信長は天正10年(1582年)に満を持して宿敵であった武田家を滅ぼす戦を仕掛け、嫡男の信忠を総大将に任じたが、滝川一益はここで軍監の一人として事実上の大将格として参戦、戦の主攻を務める。
滝川一益は信玄の没後、その後を継いでいた勝頼らを天目山で自刃に追い込み武田家を滅亡させる功績を挙げ、その領土であった上野一国と信濃の2郡を拝領、織田家内の関東御取次役と伊予守の地位をも得た。
織田家内の関東御取次役とは武田家を滅亡させたと言え、未だ北条家を始めとする関東の諸将を従わせつつ、敵対する越後の上杉家を牽制する重責であり、当時如何に滝川一益が評価されていたのかが窺える。
滝川一益は織田家中の武将として確固たる地位を上野一国と信濃2郡の拝領で築いたと言えるが、武田家滅亡後の褒美には信長が所有していた名物茶器である「珠光小茄子」を所望したと言う逸話も伝わっている。
ここで滝川一益は広い領地よりも名物茶器を欲し、都である京から遠い上野の地に赴く事を嘆いたとされ、それは人気漫画の「へうげもの」においても、主人公の古田織部に対して述べた場面が描かれている。
滝川一益の運命をも一変させた本能寺の変
滝川一益が武田家滅亡の功績によって上野一国と信濃の2郡を拝領したのは天正10年(1582年)3月だが、その地位はそれから僅か4ケ月後の6月2日、明智光秀が起こした本能寺の変によって脆くも瓦解する。
本能寺の変から2週間後の6月16日、信長横死を好機と見た北条勢は56,000名とも言われる大軍で上州に攻め寄せ、緒戦は18,000名を率いた滝川一益が迎撃に成功したものの、3倍以上の敵に押し切られてしまう。
何とか滝川一益は6月28日に織田家の領国である美濃に落ち伸びたが、その前日の27日には織田家の後継者を決める清州会議が柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀吉の4名で行われ、明智光秀を討った秀吉の意向が尊重された。
秀吉は信長の孫で信忠の長子の三法師(後の織田秀信)を担いで、その擁立に成功し、会議に出席が叶わなかった滝川一益は北条勢に領地を奪われた事もあって事実上織田家での宿老の地位を失った。
三法師(後の織田秀信)の威光を盾にした羽柴秀吉の専横を、柴田勝家は快く思わず対立が表面化し、利害の一致した滝川一益は後者の側について天正11年(1583年)1月に戦に挑む。
滝川一益は伊勢において大軍の羽柴秀吉勢に対して善戦したが、4月に柴田勝家が賤ヶ岳の戦いに敗れ自害、長島城に籠城したものの7月に降伏し開城、全ての所領を失い、剃髪し丹羽長秀の元で蟄居の身となった。
晩年の滝川一益
丹羽長秀の元で蟄居の身となった滝川一益だったが、翌天正12年(1584年)に羽柴秀吉と織田信雄と徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが発生、今度は羽柴勢に請われ、かつて知ったる蟹江城を巡る戦に従事する。
この戦で滝川一益は善戦したものの、最期は蟹江城を包囲した織田信雄勢に敗れて伊勢へと逃れたが、小牧・長久手の戦い自体は羽柴秀吉が政治力で勝利し、その報奨で次男・一時と併せ15,000石を拝領した。
羽柴秀吉が豊臣の姓を得て天下人として君臨すると、滝川一益もかつての関東御取次役などを務めた知見から、その政権下で東北の大名衆に対する交渉役を任されたとも伝えられている。
滝川一益は天正14年(1586年)に越前にて他界したが、後を継いだ次男・一時は徳川家康からの申し出によりその直臣の大名となり、一時の早逝後も徳川家の旗本として幕末までその家名は存続された。
波乱万丈な武将として戦国時代を全うした
織田家の最盛期にその宿老として、上野一国と信濃の2郡を拝領し、織田家内の関東御取次役と伊予守の地位まで得ながら、本能寺の変でその全てを喪失してしまった悲運の武将が滝川一益だった。
しかし所領を全て没収され、剃髪し蟄居しながらも豊臣政権で再登用され、次男は徳川家康の直臣に取り立てられるなど、武家・武将としては悪くないその後を迎えたようにも思える。
但し個人的には、人気のシミュレーション・ゲームとして今も新作のリリースが続く現・コーエーテクモゲームス社の「信長の野望」シリーズでの武将として印象は正直薄かった感も拭えない。
featured image:Utagawa Yoshiiku, Public domain, via Wikimedia Commons
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