アメリカ陸軍を支えたトンプソン・サブマシンガン

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2024年の現在、サブマシンガンと言えば、弾薬には拳銃弾を使用し、フルオートによる制圧射撃が可能で、単独の人員で運用するコンセプトの銃火器を総称するカテゴリーの名称となっている。
第二次世界大戦後の西側諸国の代表的なサブマシンとしては、イスラエルの当時のIMI社のUZIや、イタリアのベレッタ社のM12などが各国の軍隊で使用されたが、後に登場したドイツのH&KのMP5が精密射撃を可能とする事で特殊部隊の装備の定番となった。

今ではそうした軍隊での使用から特殊部隊、引いては法執行機関が装備する定番銃火器となったH&K社のMP5も幾分下火となり、後継には専用の小口径弾を使用し、ボディアーマーも貫通可能なMP7などのPDWが新たに広まりつつある。
言わば軍隊でサブマシンガンが主力兵器として大掛かりに用いられたのは、今から振り返れば第二次世界大戦がピークだったと思われ、その中でアメリカ軍を代表したものがトンプソン・サブマシンガンである。

その為、第二次世界大戦時のアメリカ軍が登場する映画やドラマ等においては、非常に多くのトンプソン・サブマシンの雄姿を見る機会が多いが、開発経緯を振り返ると、銃火器としては順風満帆な道程ではなかった点も垣間見える。
そこで今回は、第二次世界大戦でアメリカ軍の主力装備の一つとして常用されたトンプソン・サブマシンについて、企画・開発段階から実用化までの流れをかいつまんで紹介して見たいと思う。

目次

トンプソンSMGの生みの親、ジョン・トリバー・トンプソン

トンプソン・サブマシンの開発を行ったのは、父親もアメリカ陸軍の軍人としてその家系に1860年に生まれたジョン・トリバー・トンプソンであり、トンプソン・サブマシンの名称は彼の名前に由来している。
ジョン・トリバー・トンプソンは父親の影響もあり、1882年にアメリカ陸軍の士官学校を出て自身も職業軍人の道を歩み、彼はその後も陸軍の工兵学校や砲兵学校で学び、1890年には武器省に配属され銃火器の知識を蓄えた。

1898年に米西戦争が生起すると、ジョン・トリバー・トンプソンは38歳にして中佐に任じられ、武器省所属の仕官としてキューバ方面の戦場へ、フロリダ州のタンパに備蓄されていた兵器類を見事な差配で届ける手腕を発揮する。
この手腕が陸軍内で大きく評価されたジョン・トリバー・トンプソンは、同陸軍で当時最年少で大佐に昇進しており、如何にその調整能力と判断力が優れていたのかが窺える逸話となっている。

米西戦争は1898年4月から8月までの僅か4ケ月超の短期間の戦闘でアメリカの勝利に終わり、ジョン・トリバー・トンプソンは戦後は武器省の小火器部門の責任者に抜擢された。
ここでジョン・トリバー・トンプソンはアメリカ陸軍の主力小銃となるスプリングフィールドM1903ボルト・アクション小銃の開発、そしてM1911自動拳銃を正式拳銃に選定する任にあたる。
そしてヨーロッパで1914年7月に第一次世界大戦が開始されるも、当初アメリカは参戦を行わない方針をとり、ジョン・トリバー・トンプソンは同戦争をヨーロッパに銃火器を供給し利潤を得る好機と捉えた。

その為1914年11月にジョン・トリバー・トンプソンはアメリカ陸軍を退役、現在でもショットガンの製造で著名なアメリカの銃火器製造企業・レミントン・アームズ社に主任技師の職に天下った。

トンプソンSMGの試作

第一次世界大戦は各国が据え付け型の様々な機関銃を多用した為、最前線の歩兵は互いに塹壕を掘りそこに籠って戦う塹壕戦が主となり、多くの戦場で戦線が膠着する状況が常態化した。
こうした塹壕戦の状況を打破する方策を模索したジョン・トリバー・トンプソンは、塹壕戦で素早く敵兵を排除するべく、連射が可能な新型の銃火器の必要性を認識し、開発に着手する。
その過程でジョン・トリバー・トンプソンは、アメリカ海軍少佐であったジョン・ブリッシュ考案のブリッシュ式と呼称された、遅延ブローバック方式の撃発による銃火器を製造しようと、彼と共にオート・オードナンス社を立ち上げた。
しかし1917年になるとアメリカが第一次世界大戦への参戦に踏み切った為、ジョン・トリバー・トンプソンはアメリカ陸軍准将として呼び戻され、その辣腕を全陸軍に供給する小火器生産を担う責任者として発揮する。

但し1918年11月に第一次世界大戦は終了した為、ジョン・トリバー・トンプソンはその翌月の12月に再び軍務を辞して、自らのオート・オードナンス社においてブリッシュ式の遅延ブローバック方式を採用した新型の銃火器の開発に復帰した。
ここでジョン・トリバー・トンプソンが目指した新型の銃火器の開発は、弾薬にアメリカ陸軍の当時の主力小銃であった、スプリングフィールドM1903と同じフル・サイズの小銃弾である.30-06スプリングフィールド弾の使用を前提に進められる。
しかし試行錯誤の結果、新型の銃火器のブリッシュ式の遅延ブローバック方式には.30-06スプリングフィールド弾は強力すぎてうまく作動させる事が困難で、結果的にアメリカ陸軍の正式拳銃であるM19110用の.45ACP弾がベストとの結論に至った。

これはジョン・トリバー・トンプソンがアメリカ陸軍に復帰していた時期から続けらえていた開発の結果、1917年の夏頃に発覚したものと言われており、彼らはそれを機にトレンチ・ブルーム(塹壕の箒)と呼ぶ拳銃弾を連射する自動火器としての機関銃にコンセプトを変える。
結果として新型の銃火器は、1917年9月に.45ACP弾をベルト給弾方式としたパースエーダー、次いで翌1918年夏頃には給弾機構を20発のボックス・マガジンや、50発及び100発のドラム・マガジンとしたアナイアレーター Iが試作された。

このアナイアレイターⅠは発射レートは何と毎分1,500発と言う凄まじい高火力を実現していたが、前方下部に取り外しが可能なフォア・グリップは用意されたが、ストックは備えてはいなかった。

トンプソンSMGの実用化から量産化

第一次世界大戦の最中に並行して開発が進められ、試作品として作られたパースエーダーやアナイアレイターⅠだったが、ジョン・トリバー・トンプソンは同戦争の終結を機にそれらを軍用以外の用途への転換を指示する。
ジョン・トリバー・トンプソンらのオート・オードナンス社では、開発した.45ACP弾を使用する新型の銃火器を、これまでの大きく重い機関銃と全く異なるコンセプトの銃火器である事を示す為、トンプソン・サブマシンガンと言う製品名で世に出した。

現在では拳銃弾を使用弾薬とし、フルオート射撃が可能な銃火器の総称として、サブマシンガンという単語は用いられているが、始まりはジョン・トリバー・トンプソンらのオート・オードナンス社が固有名詞として製品名にした事に端を発する。
更にオート・オードナンス社は、このトンプソン・サブマシンガンにトミーガンなる愛称も付与したが、これも単なる愛称に留まらず、アメリカの特許商標庁に商標登録が行われ、一部の製品には刻印としても用いられた為、正式名称でもある。
こうしてトンプソン・サブマシンガン・トミーガンは、先ず1919年にM1919として.45ACP弾以外にも様々な拳銃弾に対応したバージョンが造られ、前方下部にフォア・グリップはあるがストックは備えておらず、発射レートは毎分1,000発まで落とされた。

続いて初の量産型として製造されたのがM1921であり、前方下部にフォア・グリップ、そして初めてストックを備え、ピストル・グリップを含めそれらは美しい木目が用いられ、また発射レートも毎分800発まで抑制された。
M1921には20発及び30発のボックス・マガジン、更に50発のドラム・マガジンが用意されていたが、ジョン・トリバー・トンプソンが予期した通り第一次世界大戦の終結から軍隊での採用は僅かな数に留まった。
M1921はアメリカの法執行機関として同国の郵便公社の郵便監察局にも強盗対策の武器として採用されたが、1920年に施行された禁酒法の影響で資金力を得たマフィアの構成員らも使用した為、その対抗措置としてFBIや各地の警察でも採用された。

アメリカにおいては1934年に法規制が実施されるまで、M1921のようなサブマシンガンであっても誰でも容易に購入が可能であった為、犯罪組織であるマフィアなどにも好んで使用された経緯があったが、ジョン・トリバー・トンプソンはその状況を憂いていたとも伝えられている。
以後は.45ACP弾を延長し威力を上げた.45レミントン・トンプソン弾仕様のM1923がアメリカ陸軍の要望もあって開発されたが採用には至らず、M1921をセミ・オート射撃のみに改めたM1927などが登場した。

念願としていた軍隊での採用を勝ち得たトンプソンSMG

そしてアメリカ海軍ではM1921の発射レートを毎分600発まで下げ、フォアグリップとカッツ・コンペンセイターを標準装備したものをM1928として採用、アメリカ陸軍でも1938年にM1928A1が正式採用される。
折しも1939年9月にはナチス・ドイツがポーランドへの軍事侵攻を行った事で第二次世界大戦が勃発、アメリカは1941年12月には日本との太平洋戦争にも突入した為、トンプソン・サブマシンの需要は一気に高まった。
アメリカ陸軍は基本の設計が1910年代と古い為、大量生産には不向きであったM1928A1を、何とか簡素化、主な点は特徴であったブリッシュ式の遅延ブローバックをシンプル・ブローバックに改め、1942年以後M1及びM1A1として投入した。

アメリカ陸軍では1943年以降は、より簡素で大量生産に対応したM3をサブマシンガンとして正式採用したが、同銃のシリーズが第二次世界大戦中に凡そ62万丁ほど製造された事に対し、M1及びM1A1は同138万丁以上が製造され、数において主力を担った。
但しトンプソン・サブマシンの生みの親であるジョン・トリバー・トンプソンは、1940年6月に享年79歳で世を去っており、1942年に正式採用されたM1及びM1A1の雄姿を自身が見る事はなかった。

トンプソン・サブマシンと言えば思い出すのは、やはりコンバット!(Combat!)

若い方はご存じないかも知れないが、トンプソン・サブマシンと聞いて連想するのは私自身は何といっても1960年代に製作され日本でも放映されたアメリカの戦争ドラマ・コンバット!(Combat!)だ。

コンバット!(Combat!)は主役のアメリカ陸軍の歩兵分隊の長である、ビック・モロー演じるサンダース軍曹が、トンプソン・サブマシンを愛銃としてドイツ軍と戦う様が描かれていた。
サンダース軍曹のトンプソン・サブマシンの取り回しが実に様になっており、陸軍の一般の歩兵であるにも関わらず、通常は戦車兵が着用するタンカース・ジャケットを愛用する姿も印象的だった。

featured image:Staff Sergent Walter F. Kleine, Public domain, via Wikimedia Commons

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