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大日本帝国海軍が世界で唯一実用化した「九三式魚雷」

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第二次世界大戦は改めて言うまでも無く、当時の世界の主要国の大半が参戦した人類史上最大の被害を生んだ戦争であり、甚だ逆説的ではあるが其れ故に戦後はそうした世界規模の戦争が起こらなくなったとも言える。
しかしヨーロッパでは1939年のナチス・ドイツによる1939年9月のポーランド侵攻から1945年5月のベルリン陥落まで、また太平洋戦争も1941年12月から1945年8月までの長期間に渡り、戦争には多数の兵器が投入された。

そんな兵器のひとつとして大日本帝国海軍が開発したものの中に九三式酸素魚雷があり、通常酸素魚雷と言えばそれを意味する程の代名詞的な存在となっている。
大日本帝国海軍の酸素魚雷は太平洋戦争の終結後に、アメリカ海軍で少将まで務めたサミュエル・モリソン氏が「ロング・ランス(長槍)」と名付けた事でも著名であり、その概要を紹介したいと思う。

目次

魚雷の推進方式

そもそも魚雷と言えば潜水艦の主兵装と言うのが先ず頭に浮かぶのではないかと思えるが、その起こりは1866年のホワイトヘッド魚雷ににまで遡り、当時のオーストリア・ハンガリー帝国で開発された。
同国の海軍士官であったジョヴァンニ・ルッピスの着想を元に、イギリス人の技術者であったロバート・ホワイトヘッドが完成させたもので、彼の名前が冠されてホワイトヘッド魚雷と呼称されている。

潜水艦が実用化されていなかったこの当時、ホワイトヘッド魚雷は小型の艦艇に搭載し、より大型な水上戦闘艦をも一撃で撃沈可能な兵装として期待され、以後水雷艇や駆逐艦といった艦艇への搭載が進む。
こうして生み出された魚雷は第一次世界大戦を経て、燃料と圧縮空気によって機関を稼働させ推進する熱走式と、電池でモーターを駆動して推進する電気式の大きく2種類がその推進方式となった。

熱走式は搭載する内燃機関が生み出す強力な推進力によって、魚雷自体が高速で射程距離も長大だったが、その仕組み故に大量に機関から発生する排気が目視可能な航跡を生じさせる。
その為、一般的な熱走式の魚雷は、発射した母艦の位置や方角が特定される危険性が高く、一方の電気式は航跡はほぼ生じないものの、低速で射程距離も短いと言う相反する課題を抱えていた。

熱走式の魚雷の欠点を無くすべく開発された九三式魚雷

前述したように熱走式の魚雷は内燃機関の強力な推進力によって、高速で射程距離も長大だったが大量に発生する排気の為、発射後には目視可能な航跡を生じると言う欠点も抱えていた。
そこで大日本帝国海軍では、従来の熱走式の魚雷で推進に使用されていた圧縮空気を純酸素に置き換える事に成功、これによって目視可能な航跡を生じる原因であった排気を大幅に削減する事となった。

これは純酸素を使用する事で排気の成分の大半を二酸化炭素と水蒸気とする事が出来た為で、二酸化炭素は海中に炭酸ガスとして吸収されほぼ航跡を生じず、その最大の欠点を物理的に克服したと言える。
加えて純酸素を使用した事で、魚雷に搭載された内燃機関はその燃焼時の効率も高まった為、従来のものよりも更に高速で且つ射程距離も延伸され、大日本帝国海軍では1933年(皇紀2593年)に九三式魚雷として正式化した。

圧縮空気を純酸素に置き換える事によって、こうした魚雷としての性能を大幅に向上させ得ると言う結果は、当然日本以外の国々も認識はしていたが、純酸素の爆発しやすい性質から実用化は困難と見做されていた。
後にイギリスは純酸素ではないが、圧縮空気の成分内で酸素の比重を高めた熱走式の魚雷を開発したが、仮にこれを酸素魚雷と捉えても実用化と運用は日本が先んじており、如何に魚雷を重視していたのかが偲ばれる。

九三式魚雷の開発に注力した背景

世界に先んじて大日本帝国海軍が93式魚雷として酸素魚雷を1933年に正式化にまで至った背景には、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの5ケ国が1922年に署名し翌1923年から発効されたワシントン海軍軍縮条約がある。
ワシントン海軍軍縮条約は先に挙げた日本を含む第一次世界大戦の戦勝国5ケ国が、加熱する海軍戦力の増強を互いに牽制し、理想としてはその後の武力衝突を未然に防ぐと言う観点から締結されたと言えよう。

そこでは戦艦や航空母艦といった海軍艦艇に対し、その保有数を総排水量によって制限する事が決定され、アメリカ・イギリス:日本:フランス・イタリアは5:3:1.67と言う比率となった事はあまりにも有名だ。
日本はこのアメリカ・イギリスの5に対して、自国が3と言う6割の割り当てに納得せず、少なくとも7割を主張するが通らなかったとされるが、一説には当時の工業生産力を考慮した場合、条約がなければもっと差が付いたとの見方もある。

いずれにせよの日本はこのワシントン海軍軍縮条約の締結によって、アメリカ・イギリスに比して艦艇数で劣る状態に置かれた為、大型艦をも小型艦からの攻撃で撃沈させられる魚雷の開発に注力したと見て良いだろう。

九三式魚雷シリーズの仕様、実戦での戦果

九三式魚雷の仕様は最初に生産された艦艇搭載形式の一型の場合で、全長9.0m、直径0.61m、重量2,700kg(内弾頭重量490kg)で射程距離は36ノット時で40,000m、48ノット時で20,000mとなっている。
後の改良型である三型では、全長や直径は同様だが重量2,800kg(内弾頭重量780kg)で射程距離は36ノット時で30,000m、48ノット時で15,000mとなっており、炸薬量の増加で威力は増したが射程距離は短くなっている。
更に九三式魚雷をベースとして、潜水艦搭載用に小型化した九五式魚雷一型や、大型航空機に搭載する九四式魚雷一型、艦載機用の九四式魚雷二型が生産されたが、航空用は何れも少量の生産で中止されている。

九三式魚雷シリーズの実戦での戦果としては、1942年9月15日に伊号第十九潜水艦が挙げたものが知られており、ここでは九五式魚雷6本が発射されが、内3本がアメリカ海軍の航空母艦「ワスプ」に命中、撃沈の戦果を得た。
この時伊号第十九潜水艦が発射した九五式魚雷6本は、全て航空母艦「ワスプ」に向けられたものだったが、外れた魚雷が凡そ9.3kmも離れた場所を航行中のアメリカ海軍の戦艦「ノースカロライナ」と駆逐艦「オブライエン」に偶然命中した。

駆逐艦「オブライエン」はこの攻撃で受けた損傷の影響で翌月の10月19日に沈没に至り、戦艦「ノースカロライナ」の方は沈没は免れたものの、その後3ケ月に及ぶ修理の為に一旦は戦列を離れた。
オリジナルの艦艇搭載型の九三式魚雷の戦果としては、1942年2月末から3月にかけてのスラバヤ沖海戦において、重巡洋艦「羽黒」がオランダ海軍の駆逐艦「コルテノール」を撃沈した記録が残されている。

特攻兵器・回天にも転用された九三式魚雷

太平洋戦争の戦局が次第にアメリカを始めとする連合軍の反撃によって悪化していくと、その物量によって多数の艦艇が投入された事で追い詰められていった日本軍は、航空機による自爆攻撃、所謂特攻を行うようになる。

そうした特攻兵器のひとつに九三式魚雷も「回天」と名付けられて転用され、その最初の一型は全長14.75m、直径1.00m、重量8,300kg(炸薬量1,550kg)で射程距離は30ノット時で23,000m、10ノット時で78,000mと大型化された。
1名乗りの「回天」は1944年11月以降、アメリカ海軍の給油艦「ミシシネワ」や護衛駆逐艦「アンダーヒル」等、合計で3隻を撃沈しているが、何れも敵の主力艦ではなく、航空機の特攻に比すれば効果は薄かったと感じられる。

兵器としての九三式魚雷の評価

九三式魚雷は当時の世界各国の海軍がでその酸素魚雷の威力の有用性を認識していながらも、扱いの困難さから実用化に踏み切れなかったものを、当時の日本が技術的に実用化に至った事は特筆に値するだろう。

但し実際の戦闘での戦果を踏まえた場合、その場での撃沈は航空母艦「ワスプ」や駆逐艦「コルテノール」と非常に少なく、後に沈没に至った駆逐艦「オブライエン」を入れても甚だ限定的だったと個人的には思う。

太平洋戦争後期の大本営発表は日本側が圧倒的な不利な状況を糊塗するべく、盛りに盛った戦果報告をしていたと伝えられているが、今もロシア・ウクライナ戦争での今のロシアの振る舞いにはどこか似たものが感じられる。

featured image:Naval History & Heritage Command, Public domain, via Wikimedia Commons

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