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八幡神の謎

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現在、全国の神社総数は80,000社以上あると言われており、その中で最も多く名を連ねるのが『八幡神社』であり、祀る神は『八幡神』である。
しかし、この『八幡神』とは日本神話の古事記等に登場せず、後に広まった信仰だということが分かる。

主祭神は、応神天皇と神功皇后等がであるが、詳しい説明が無いと言われる『八幡』は、何を意味しているのか。
総本宮である宇佐神宮とは、何だったのだろうか?

目次

記紀にある主祭神の事績

神功皇后は、夫の仲哀天皇の崩御から子の応神天皇即位まで初めての摂政として日本の政権を握った。
身重で三韓征伐の実施をし、約70年間政務に関与したとされる。
その後も応神天皇を即位させるために、腹違いの皇子たちを静粛している。

応神天皇は、詳しい人物像は描かれていないようで、その出自こそ疑われているものの、記紀によれば、朝鮮半島から流れて来た渡来人を用い、国家を発展させたとある。
国にとって大きな功績があるために神として崇められたのだろう。
そして、応神天皇は、中世以降は軍神・八幡神として信仰された。

「八幡」の由来は何か。

諸説あるが、応神天皇が産まれる際、天より八つの幡が降りて産屋の上を覆ったという。
古来より「八」は数というよりそのものの多さを表す。
「幡」は「旗」と同じ意味を持ち、旗は目印ではなく神の依り代と考えられていた。
つまり、八幡とは『多数の幡を立てて祀る神』であるといえる。

皇位と武家の守り神

八幡神は謎が多く、その名は記紀にも無いことも、なぜ応神天皇と同一視されているのかも分からない。
もともと、九州の大分である宇佐神宮で祀られている神であった。
奈良時代、八幡神が神のお告げにより、大仏建立に協力しようと言われたことで、重要視するようになった。
伊勢神宮と共に天皇家の二所宗廟とされることで、特に位が高いことが分かる。

その後、源家の氏神として篤く信仰され、鎌倉の鶴岡八幡宮は、義家や頼朝ゆかりの神社として知られている。
多くの武士たちは源氏に連なるとして八幡神を信仰し、源氏の守り神から武家の守り神となった。
それが全国各地で祭られるようになり、さらに母親である神功皇后のご利益の安産や子育てのご利益を得れる神社となったという。

秦氏が創建した八幡宮

3世紀後半に、日本に約2万人の渡来人がやってきた。
この集団が、「秦氏」である。
秦氏の事は『日本書紀』にも書かれ、日本にさまざまな技術(養蚕・酒造・機織り・鋳造など)や文化を運んできたという。
その秦氏が、後に宇佐神宮のある北九州を拠点として、機内に進出して来たと言うのだ。

応神天皇は3世紀後半から4世紀初めに在位した天皇と言われており、その時代に「弓月君」という秦氏の族長が百済から日本にやって来たのは知られている事実である。
その応仁天皇を讚え祀る神社を秦氏が建立したのが、宇佐神宮だという。
しかし、由緒にもあるように、ここには以前から神を祀る場所であった。

果たして、真偽は分からないが、新しい神を上書きしたという説もある。
また、この秦氏がユダヤと言われ、ユダヤの神『ヤハウェ』が『ヤハタ』と言われ、「八幡神」という神をも輸入して来たのかとも考えられる。

比売大神の謎

宇佐神宮の主神の位置、中央に配置されているのは比売大神という神だ。
なぜそうなっているのかは謎とされている。
れは特定の神の名を表すのではないらしく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すという。
ちなみに宇佐神宮の比売大神は、宗像三女神だというが、それには異論も多いという。

では誰なのか、ということだが、都市伝説界隈での話で、一説には魏志倭人伝にある『卑弥呼』がその比売大神だったという。
となると、邪馬台国は北九州説ということを有力視していることとなるが、それはまた別の話である。

後に秦氏が、機内へと進出していくことで、力を持った天孫族も機内へと異動した、若しくは逆に九州に侵攻してきたという事も考えられるため一概には言えない。
とにかく、魏との関係やユダヤとの関係、宇佐神宮の主祭神について、入れ替わった説もありとても謎が多いところである。

※画像はイメージです。

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