日本神話である古事記では、ヤマトタケルの存在は際立っている。日本武尊・倭建命と表記され、本の名はヲウス(オウス)という。
日本神話でもその人気ぶりは、一・二を争うほどであるというが、ヤマトタケルの魅力は、その超人的な武力と悲壮感あるストーリーだろう。
これほどまで強く、悲劇のヒーローを演じる伝説的な人物ははたして実在したのだろうか?
ヤマトタケルの功績
若き日のヤマトタケルは小碓命(ヲウス)といい、父・景行天皇の寵妃を奪った兄・大碓命(オオウス)に対し、父の命令の解釈の違いから兄を捕まえ残忍に殺害した。
そのため小碓命は父に恐れられ疎まれてしまう。
父は、小碓命を戦死させる目的も含み、九州の猛者である熊襲建 (クマソタケル)兄弟の討伐を命じたが、これに勝利する。
小碓命は山の神・河の神、穴戸の神を次々平定して功績を挙げるが、それが父にとってより恐れるものとなった。
さらに出雲に入り、出雲建(イズモタケル)と親交を結ぶフリをして出雲建を殺してしまう。
この時に小碓命はヤマトタケルと名乗っている。
多くの国を平らげて、ヤマトタケルは朝廷に参上し復命するが、父は、ヤマトタケルをさらに戦場へと追いやることにした。
相模の国で荒ぶる神により野中で火攻めに遭ったが、草薙の剣を振り払って火を消し、神々を討伐する。
上総に渡る際、海の神が進行を妨げ、ヤマトタケルの后である弟橘比売(オトタチバナヒメ)が自ら入水して波を止め先へと進ませたという。
最後には、尾張に入っていたヤマトタケルは、伊吹山の神と戦うため、伊勢の神剣である草薙の剣を美夜受比売(ミヤズヒメ)に預けたまま素手で討ち取ろうとして出立する。
素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れたが、神の眷属として相手にしなかった。
それが伊吹の神であったため、ヤマトタケルは病に罹り、能褒野(のぼの)で死亡し白鳥になって飛び立ったという。
ヤマトタケルの記紀での記載では
上記の物語は、古事記から由来しているのだが、もう一つの神話である日本書紀では、大きく内容が異なっている。
父・景行天皇とは関係性は良好であり兄・大碓命も殺害しておらず、怖気づいた兄に変わって天皇の後継に選ばれ三種の神器である草薙の剣を授かっている。
熊襲討伐に関しては同じだが、東征についてはルートが違ったり、話に食い違いがあるようだ。
ヤマトタケルは実在したか・・・実在したのかと言われれば、天皇家の譜系にも名があるため実在したと言っても良い。ただ、その人物は多少盛られている事、多くのモチーフがいる説がある。
ヤマトタケルが生きた時代は、一説には4世紀ころと言われている。
その頃アジアを牛耳っていたのは、紛れもない中国であり、三国時代が終わり、晋が統一した後、異民族が中華を蹂躙した地獄の時代が訪れた。
その後、隋が再度中国を統一するのだが、4世紀はちょうどその頃の混沌とした時代だった。
日本も、中国が混沌とした時代だったことで、記録が散逸しており、倭の五王がいたということだけが分かっているのみである。この時代、一説には混乱を避けるように中国から日本に渡来した人も多くいたと言われ、日本もその影響を受けたと考えられる。
まだ、その頃は日本もいくつかの国に分かれていたと言われ、大和朝廷に反する集団も少なくなかった。
渡来人も含め、争いが起こったというのは理解できる。
日本の英雄ヤマトタケル
ヤマトタケルの実在を疑われるところは、その功績である。
西から東から東北にまで手を懸けた英雄は、神を討伐するという名目での、各地の豪族を平定していったのだ。
その混乱期は、ちょうど4世紀から7世紀辺りの事だと考えられ、日本の中央であった大和から関東方面までを統一に向け征服していった、大和政権の功績のあった人物の物語を全て集めて、一人のヤマトタケルという人物を作り上げた、という説もある。
ヤマトタケルを祀る神社で、東征した際に言われがある場所が、関東や東北にも多くある。
いつの時代も、混沌とした時代にはヒーローが必要だ。
そのような、悲劇のヒーローに皆が歓喜し涙した、英雄記だったのかもしれない。
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