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平清盛の死因は呪い?

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平清盛は平安末期の武将で、当時公家社会の日本において初めて武家政権を打ち立てた人です。藤原氏が世襲する太政大臣の位になり、有名な「平氏にあらずんば人にあらず」と言う言葉があります。
この言葉は清盛の義弟である平時忠という説がありますが、清盛は当時公家や源氏からは好意的に見られていなかったことが推測されます。
彼の壮絶な最後は文献に残されており、実は呪われて亡くなったなどいろいろな説があるようです。

目次

死因は怨念?

当時は怨念によるものという噂もあり、京の人たちは「悪行の報いが来た」と囁いたそうです。
清盛の妻である時子は地獄から獄卒が清盛を迎えに来る夢を見ていて、清盛の急死は後世において怨念の報いと言う設定でいろいろな作品に描かれています。

清盛の最期の様子について平家物語や公家の日記などから把握することができ、「あつち死に」という壮絶なものでした。平家物語において「あつち死ぞし給いける」と記述されており、「あつち死に」は熱さのあまり死んたと解釈されています。
百人一首を作成した藤原定家の日記である「明月記」には動熱悶絶という表現があり、かなりの高熱が出たことが分かります。

平清盛の死因

平清盛の死因はいくつかあり、最も有力視されているはマラリア説。
平家物語によると、突然高熱に侵され発病してから5日後に死亡したと記載され、石の風呂に比叡山から持ってきた冷たい水を入れても、清盛が浸かるとすぐにお湯になったそうです。
清盛は「熱い熱い、痛い痛い」と言うだけで熱は下がらず、これらの症状からマラリアによって高熱や頭痛などが起こり、悪寒が起こっていたのではないかとされています。
マラリアは40度の高熱が出て、48時間や72時間毎に繰り返すと言う死亡率の高い病気ですが、清盛が亡くなったのは冬になるので、蚊を介して感染するマラリア説には疑問を投げる人も多いです。

インフルエンザウイルスという説もあり、特効薬がない当時は死亡率が高かった病気で、清盛の高熱が続く症状からインフルエンザかもしれません。
他にも脳出血や髄膜炎などを疑う説もあり、これらの病気も高熱が出たり頭痛があり、同時に妄想や意識混濁なども現れ、可能性としては考えられるでしょう。

平清盛の最後

自分の最期を悟った清盛は、妻の時子に告げます。「思い残すことがあるなら、頼朝の首を見なかったことだ。私が死んだ後堂や塔を建てて供養しなくてもよい。頼朝の首をはねて私の墓の前に供えてほしい」。

清盛の死の半年後、源頼朝は密かに平家に和睦を提案したのですが、平家側は拒否しました。その後平氏は西国に逃れましたが、壇ノ浦の戦いで滅亡してしまうのです。
平清盛は大河ドラマや時代劇ドラマによく出てくる歴史上の人物ですが、その死には多くの謎が残されています。

※画像はイメージです。

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