妖怪「枕返し」をご存知だろうか。
夜中に枕をひっくり返してしまうという恐ろしい妖怪である。
例えばあなたが低反発枕を使っている時に襲われれば、効果は半減、寝違え、肩こりに苛まれるかも知れない。
リバーシブル蕎麦殻なら、フカフカ面で寝た筈なのに、ジャラジャラ面で起きる事になるのだ。
だが、
「それ何が怖いの?」
「一体何がしたいの?」
などと失笑される事がある。
本当に、笑い事で済むものだろうか。
枕を返すという事
動機の分からない妖怪の中で、枕返しはそのかなり上位の方だろう。
しかし実は、枕返しの行動にはきっちり意味がある。
まず、枕返しは単に枕をひっくり返すだけではない。
頭と足の向きを、ぐるりとひっくり返す事もある。
せっかく南向きで寝ていたのに、目が覚めると北向きになっている。
北枕を避けたい人にとっては、悪夢のような目覚めだ。
風水的に、水の気を高めようとして北向きに枕を置いていた人にも厄介だ。
ここまでダイナミックにやらかす枕返しは、
- 人に迷惑をかける系の妖怪
- 世の中の不可解を妖怪として説明する
という、いずれのニュアンスにもピッタリ合う。
睡眠中の魂事情
睡眠中というのは、生物的に言って無防備な状態である。
そして、オカルト的にもかなり危うい。
何しろ、「魂が肉体から抜け出る時」という解釈があるのだ。
眠っている人の魂は、割とスナック感覚で身体から抜け、時に意中の相手に逢い行く事もある。
片思いの相手が夢に出る時、現在は「自分の思いが夢になったのだろう」と、自分の内面の影響と考えるが、かつては「相手の想いが高まり逢いに来た」と、相手の魂の問題と解釈した。
こういう描写は、宮廷文学に出て来そうだ。
宮廷文学は女流文学でもある。
平安貴族は、男性が女性の家に通う「通い婚」が基本だったというから、意中の人の魂が「やって来る」という感覚になるのも納得出来る。
スパゲティ現象の恐怖
さて、問題は魂が抜けた肉体の方である。
はじめてのおつかいに出た魂が迷子になってしまえば、肉体の方は死体と変わらない。
魂が、五感に優れ機動性の高い存在であるなら、肉体がどこにいようときちんと帰れようが、そうでもあるまい。
力のある霊能者であれば、思い通りに魂を飛ばせるだろうが、一般人のカトンボ程度の魂は、肉体のちょっとした変化で迷ってしまう。
「ちょっとした変化」
すなわち、枕返しに枕を返されるような状態である。
上下が違うだけで、身体はまともにコントロール出来ない。
魂が無線誘導で迷うのは当然だが、有線誘導でもややこしい。
魂が抜け出た時、「魂の緒」とでも言うべき紐状のもので、肉体と繋がっていたとする。
ここで身体の向きを変えられれば、緒が絡まったりちぎれたり、操作不能に陥る可能性がある。
魂の有線誘導というのは、私の思い付きではない。妖怪のろくろ首が、その状態である。
これは『曽呂利物語』に記述があるが、集英社の漫画『地獄先生ぬーべー』で、絵的にも上手く表現されていた。
落語における枕返し表現
命にかかわる枕返しは、落語にも存在する。
落語『死神』で、枕返しを人間がやっている。
ここで返される枕は、病人のものだ。
- 死にそうな人の枕元には死神がいる
- まだ死なない人は、足元に死神がいる
という事を知った医者の主人公が、治療報酬目当てに死ぬ予定の病人の頭の向きをひっくり返し、命を延ばしてしまう、というものだ。
これも、寝床の向きが命を大きく左右するという考え方が根底にある訳で、妖怪の枕返しと共通したニュアンスの話と言えるだろう。
現実の枕返し
枕返しをオカルトと切り離して考えた場合はどうだろう。
枕返しは、「寝返り」を妖怪として解釈したものである。
人間、眠っている間に相当の数寝返りがあり、思っている以上に動いている。
寝た時と同じ姿で目覚めるからといって、途中経過でどれだけ動いているか分からない。
このダイナミック過ぎる動きは、「ここまで動くのなら、自分が眠っている時に何をしているか分からない」という、無意識に対する恐怖を呼び起こす。
そこに妖怪枕返しという説明を加える事で、「枕が返るのは、妖怪のしわざ」と理屈をつけ、無意識行動する自分への恐怖を遠ざけた。
もっとも実際は、人間にとって寝返りは必須であり、寝返りが出来ない場合は健康上の問題が生じる。
人間、皮膚を一晩圧迫し続ければ、血流が滞り皮膚は床ずれ(褥瘡)を起こし始める。
健康体なら想像も出来ないだろうが、障害や加齢で身体の動きが鈍れば、当たり前に生じる。
すなわち、介護現場の日常である。
独居高齢者が急な脳梗塞で倒れ、発見されるまでの間に褥瘡が出来たというのは、珍しい症例ではない。
こういう寝返りが出来ない人にとっては、むしろ枕返し大歓迎だろう。
そもそも、現在の電動の褥瘡防止マットレスは、自動的に動いて、皮膚の圧迫箇所をずらしてくれる機能が付いている。
「人工枕返し」と言って良い。
枕返しとの付き合い方
枕返しに救われるのか、苦しめられるのかは、人間次第である。
枕返しをポジティブに受け取るなら、共存するつもりでいれば良い。
枕返しが気分良く枕を返せるように、寝床は綺麗にし、特に枕カバーは定期的に替え、臭いや黄ばみが残らないようにする。妖精相手と似たようなものだ。
逆に、どうもネガティブに感じられるなら、枕返し祓いをやってみると良い。
狐狸の類が元と感じるなら、番犬としてイヌの置物を置くと良い。
和歌山県の伝承では、般若心経を唱えて難を逃れたという話があるので、念仏や聖句を唱えるのも手だ。
ネガティブな霊障の類は、自分の中の「内なる信仰心」が、悪く働いている場合がある。
ある程度自分が「納得出来る儀式」が、メカニズムはどうあれ力を発揮するのだ。
眠りは心身の健康を支えるものである。
枕返しと適切な関係を築き、日々、心地よく眠りたいものである。
竜斎閑人正澄 (Japanese), Public domain, via Wikimedia Commons
※画像はイメージです。
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