MENU

米は妖怪にならない

当サイトは「Googleアドセンス」や「アフィリエイトプログラム」に参加しており広告表示を含んでいます。
  • URLをコピーしました!

2024年8月に店頭から米が消えた。

麺類を食べたり麦を焚いたりしてしのいでいたが、9月も終わりになってようやく店頭で途切れないようになった。
不足時は買い占めを非難する声もあったが、店頭の品物は、皆がいつもより1つ余計に買えば消えるので、敵を探したところで幸せにはならない。
来年も米不足と煽る記事や報道もあるが、不安は煽った方が閲覧数が上がるだけの事、真に受ける事もない。

どうせ根拠曖昧なら、オカルトの事でも考えていた方が、余程精神衛生上良い。
という事で、お米の妖怪について考えよう。

目次

食べ物系妖怪

食べ物の妖怪は、案外出て来ない。
豆腐小僧、小豆洗い辺りが有名どころ。
もう少し調べると、燈無蕎麦、甘酒婆、饅頭喰わせといったものも食べ物絡みだが、メジャーどころとは言い難い。
肉吸いというのもあるが、これは食べ物と違う。肉も吸われるのも人間の方だ。

米に限ってみると「米とぎ婆」という妖怪がある。
これは、長野県の妖怪で、山中や井戸で米を研ぐ音を立てるという。

また、柳田國男の著作『妖怪談義』によれば、信州の伝承で、荒神が「お米とぎやしょか人取ってくいやしょかショキショキ」と歌うという。
いずれも小豆洗いの類型と解釈されるものだ。

小豆洗いは、全国的に知られる妖怪で「小豆を研ぐ音を立てる」、「笑い声などを上げる」といった特徴がある。
姿に関する描写は乏しく、これはすなわち、「原因の分からない自然音」を妖怪化したものと考えるのが自然である。

小豆を洗ったり米を研いだりする音が自然にするものか、と考えるかも知れないが、音というのは複雑なものだ。
音は「音波」とも言うように波の性質を持つため、同じ波長のものがぶつかれば合成される。
これを繰り返す事で、単体の音からは想像も付かない音になる。
鈴の音1が波長をいじると、釣鐘の音のように聞こえるのもその一例だ。

小豆洗いに誤認されそうな音としては、葉の擦れ合う音が考えられる。小さい音のようだが、集まれば山全体が鳴って聞こえる。
葉の擦れる音が大きいため、「山鳴らし」の名を持つ樹木もある。
これが、夜の眠りかけた頃の耳に入れば、何やら穀類をザラザラ動かしている音に聞こえもしよう。

米は妖怪にならない

自然音が由来だとすれば、米とぎ婆は「米が変化した妖怪」とは言い難い。

身近な筈の米の妖怪がなかなか見つからないのには、きちんと理由がある。
妖怪とは同質逆方向の存在、日本神話の「神」の側から見てみよう。

稲を名に持つ神としては、八岐大蛇の生贄で知られる、奇稲田姫(くしなだひめ)が有名だろう。
両親と合わせて稲の神とする解釈もある。
奇稲田姫を呑み込もうとする八岐大蛇は、無数に分かれ、流域が定まらず、氾濫しやすい川の暗喩と取れる。
すなわち、素戔嗚尊が象徴する当時の権力者によって、八岐大蛇の討伐(治水)が成されて田が整い、稲が収穫出来るようになった、というストーリーである。

この場合、素戔嗚尊が詠んだという
「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」
という和歌は、無数の石垣で区切られた棚田のイメージにも繋がる。

苦労して作り上げた米は、保存性が高く、収量予測が容易で、租税用として有用で、権力構造を支える。
単なる「おいしい食べ物」を超えた価値を持つ。

2対8ぐらいの麦ごはん

神宿る米

米は餅にもなる。
鏡餅は、年神のお供え物とされるが、依代としての意味も持つ。
円鏡は丸く光を反射し、太陽、すなわち天照大神に通じる。

また、米の一粒には複数の神が宿るという言い方もある。

神の数としては「7柱」が比較的知られ

  • 七福神
  • 大国主命の御子神七柱
  • 水、土、風、虫、太陽、雲、作り手の七要素

などを当てはめる場合があるが、実際のところ数はあまり定まっていない。

先の奇稲田姫が宿る事もあろうし、穀物神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、すなわちお稲荷さんが宿ってもおかしくはない。
名も無き新参の神が宿る場合も充分あり得る。
特定の何かではなく「7」が出て来るのは、「いっぱい」のニュアンスだろう。候補は無数にいるという事だ。

結論としては、日本における米は「神」「聖」の側のものであり、それ故に「妖怪」「邪」に貶められる事はないのだ。

米を鎮めるには

もっとも、聖に類する米が人を害する事もある。
「米を粗末にしたら罰が当たる」といった「神罰」の文脈である。

この神罰は、妖怪のように無闇に恐れるべきものではない。
米を無駄にせず、おいしく食べて、その存在を全うさせれば良い。
そこに明確な儀式やルールはない。
あなたが納得していれば充分である。

それでも何か後ろめたい事があり、米によって良からぬ事が起きている気がするなら、あなたにとって腑に落ちる、宗教儀礼に頼ると良い。
例えば、お稲荷さんの参拝なら、明日にでも出来るはずだ。

表層意識で信じていようがいまいが、心、自我に文化は入り込む。文化は、土着の信仰が入り込む。
心の平穏にとってオカルトは、案外馬鹿にならない要素なのだ。

参考:
末広米穀店「一粒のお米には七人の神様がいる」

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

思った事を何でも!ネガティブOK!

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

目次