忘れもしない2000年8月2日。日本最大の匿名掲示板「2ちゃんねる」のオカルト板に、「死ぬほど洒落にならない怖い話を集めてみない?」(通称:洒落怖)というスレッドが立った。
するとたちまち投稿するユーザーが相次ぎ、それに続く者、派生スレッドが生まれ、次第に一つの“文化”となって、数々の奇妙な都市伝説が生まれてきました。
そのなかで個人的にですが特に強い印象を残した存在が、「くねくね」「ヤマノケ」「八尺様」「猿夢」だと思います。あの頃、リアルタイムに体験してきた著者にとって、懐かしい存在でもあります。
気がつけば・・・あれから25年、「今」改めて考察してみたいと思います。
くねくね
田んぼの中に立ち、くねくねと不自然な動きをする白い人影のような何か。
遠くから見ているうちは問題ありません。しかし、正体を知ろうとすると精神を病む、あるいは命を落とすとも言われています。
「見たらいけない」「理解しようとしたら終わり」という設定は非常に秀逸です。具体性がなく、何もわからないままに恐怖だけが伝わる構造は、まさに“純粋な不気味さ”の体現でしょう。
「くねくね」は観測してはならない情報の象徴?
くねくねの恐怖は、「見るな」「知るな」「気づくな」という、いわば情報への接触そのものが危険であるという構造があると言えます。
心理学的に「曖昧な形が意味を持って動いている」こと自体が、視覚認知系に強烈なストレスを与え、また、異常な動きをする人型の存在は、「自己と他者の境界」を崩壊させるトリガーなのでは?
この“見ることで発狂する”というのは、クトゥルフ神話や民俗の中の“禁忌の神”と非常に類似しており、くねくねという存在は「視覚情報として処理してはならない・・・できないもの」。つまり人智を超えた存在。
田んぼという場所も象徴的です。人の生活圏と自然の境目であり、水辺や湿地は古くから“異界との接点”とされてきましたた。そこに「形のない何か」が立っているという構図は、この世とあの世の境界に立つ存在という日本的怪異観とも深くつながっていると提言します。

ヤマノケ
ヤマノケは、山中に現れる“正体不明の何か”であり、人に擬態し、集団にまぎれるとされる。
見た目は不明瞭で、同行者のふりをしてついてくるというケースが多い。
山は「神域」や「あの世との境」とされることも多く、ヤマノケが“人と異形のものの入れ替わり”をテーマにしているとすれば、民俗学的な解釈も可能でしょう。
ヤマノケにしろくねくねにしろ、「白くて形が曖昧」「動きがおかしい」「山や田んぼなどの人里離れた場所に出る」といった共通点が、見る者の不安をかき立てるのです。
「ヤマノケ」は“擬態と境界喪失”の怪異
この怪談のコアにあるのは、“入れ替わり”というモチーフです。
山は「神の領域」「死者のいる場所」「境界」であるというのは、民俗学上の共通したテーマであり、ヤマノケはその“境界の曖昧さ”を象徴していると考えられます。
近年のホラーでも「自分と他者がすり替わる」「集団に異物が紛れ込む」というモチーフはしばしば扱われ、個人のアイデンティティの喪失、つまり自己消失への恐怖に直結し、心理的トラウマとつながっているでしょう。
山は状況によってGPSの効かない空間となり、感覚が狂えば自分の五感すら信用できないという不安が強調されるとして、ヤマノケは、視覚・記憶・会話といったすべての情報チャネルを揺るがす存在なのだろうか?
また、山に入った者が変わって帰ってきたというのは、古くから日本各地に伝わる異界譚のエッセンスであり、その系譜をネットという現代の口承空間で受け継ぐ意図があったのかもしれません。
人ならざる人の姿?「八尺様」
八尺様は、2メートル以上の背丈に白いワンピース、つばの広い帽子をかぶり、「ぽぽ」という奇妙な音を発する女性の姿をしています。
対象は少年で魅入られると何処かへ連れ去れてしまいますが、理由は語られていません。どこから来て、何を目的としているのかも一切不明。
ただ、助かる手段はあるのです。
「八尺様」は“視覚に潜む不安”の結晶
“2メートル以上の女”という非現実的な存在感。顔は隠され、声は意味を持たない。
視覚的インパクトに頼った怪談は、時に俗悪になりやすいのです。ですが八尺様は、説明のなさこそが効果を高めているのでは?
帽子で顔を隠す、性別は明らかであるのに目的は不明、人を狙うロジックも存在しない。
つまりこれは、「人間そっくりだが人間ではないもの」を見たときの、認知の破綻を突いてくる構造でしょうか?
「少年ばかりを狙う」という不可解な執着には、母性のねじれた表現や性的・精神的な支配構造の暗喩で、彼女は“女性の皮をかぶり、母にも鬼にもなりうる存在。
その語り口には昔話的な構造も残っているて、助かる手段が存在して、村の人が知っているなどから、八尺様は民話と怪談の中間地点に生きる存在といえると思います。

猿夢
一方で「猿夢」は、現実ではなく夢の中を舞台にする怪異です。
ある人物が見る夢の中で、電車の社内に流れるアナウンスの通りに惨殺されていという話。
なぜ猿なのかというのは、年配の方ならご存知だとおもう、かつて遊園地によくあった「お猿さん」が運転する電車の中の設定だからです。
「猿夢」は“逃げられない恐怖”
猿夢の構造は、密室・反復・逃れられない死という3つの要素で成り立ち、これらはまさにトラウマ的な悪夢の典型構造でしょう。
昔々、よく遊園地にあった生きている猿を運転手にみたてた、電車のアトラクション。それはいつしか動物虐待として扱われて姿を消していきました。
猿がほんとうにそう思っていたかは解りませんが、虐待したものへ無感情で順番に人を殺していく。
「順番に死が近づいてくる」という恐怖は、読者への強烈な恐怖を植え付けでしょうか。
制度的な暴力とも共鳴しているような気もします。
現実ではなく、誰にでも訪れる夢という逃げ場のない場所、そして避けられない運命。
ラストの一文「あなたの夢にも出てくるかもしれない」によって、物語は終わらず、“感染型”として恐怖を引き継がせる設計になっています。

終わりなきネット発生都市伝説の楽しみ方
ネット発症の都市伝説は、現代の民間伝承であります。
情報の正確性や出典よりも、語りたい、聞かせたい”という衝動が先にあり、投稿された物語はユーザーによって拡散され、考察され、補完されていく。
まさに、かつての怪談会や村の火鉢のまわりでの語りと同じ構造が、インターネットというメディアにおいて再現されているのです。その根底には、「よくわからないもの」「理解したくないけど目を背けられないもの」への人間の本能的な興味があります。
怪異とは外にあるのではなく、恐怖とともに、いつだって我々自身の中にあるのです。
※画像はイメージです。



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